昨日、令和4年11月27日、母校の成蹊学園で安倍晋三さんお別れの会があり、案内をいただいたので出席した。
ずいぶん多くの参列者だな、との印象を受けた。九十代とおぼしき方から成蹊小学校の児童まで幅広い方々の参加で、安倍さんが多くの人に好かれていたことを改めて知った。
会場は成蹊学園本館大講堂と大学六号館の二か所に分かれておこなわれた。本館大講堂は大正期に造られた天井の高い立派な講堂だが、席数は二百程度であろうか、さほど広くはない。大正末期の成蹊学園は、小学生・中学生・高校生(旧制)合わせてその位の人数だった。小学1年生の少年と旧制高校の18・9歳の青年が、同じ学食で隣の席で昼食を食べ、ほぼ全員が互いの顔と名前を知っている、というほど小さな学校だった。
よって、私を含む大部分の参加者千名程度は、大学六号館でビデオで本館での式の進行を見て、献花のときは本館に移動した。
成蹊学園理事長・小林健氏(元三菱商事社長、現日本商工会議所会頭)、成蹊会会長、友人代表の「お別れのことば」はみな心のこもった素晴らしいスピーチだった。安倍晋三さんは兄の寛信さんと共に、小学校から大学まで成蹊で学んだ。祖父・岸信介のすすめによると聞いたが、どのような理由で岸さんが孫二人を成蹊に学ばせたかは知らなかった。
「岸さんは山口県の出身で、吉田松陰先生をずいぶん尊敬しておられた。多くの志士が巣立った松下村塾を教育の理想形と考えていた。すなわち、知識の詰込み型ではなく、若者各人の個性を伸ばし、創造力豊かな人材を育成するという成蹊の教育方針に共鳴していた」との小林理事長のスピーチで、その理由を知った。
式がはじまるまでの時間と、黙祷のあとの、安倍晋三さん経歴紹介の二つの箇所で、安倍さんの生前の活躍のビデオが放映された。ここで私にとって、新しい発見があった。
いずれも成蹊学園での講演のビデオである。一回目の総理就任のときは、少し肩に力が入っているという印象を受けた。二回目の総理在任中は、いくつもの実績を残し、トランプ大統領を含めて各国の要人たちと対等以上の立場でやりあった自信からか、にこやかで余裕が感じられ、ユーモラスな発言がいくつもあった。
「成蹊学園は私の心のふるさとです。成蹊の名の由来である ”桃李不言下自成蹊” を自分の座右の銘として、若いころから私なりに努力してきました。
ところが政治家になったとたん、気がついたのです。政治家というのは、しゃべるのが仕事なんですね。だんだんとおしゃべり人間になってしまい ”桃李不言” とはいかなくなってしまいました。
第一次安倍内閣のとき病気をして退陣しました。あの時はみなさんにご心配をおかけしました。なさけない奴だと思われたかもしれません。 ”桃李言わざれども下自から蹊を成す” をモットーに自分なりに努力してきたのですが、政治とは権力なんですね。総理の座を退いたとたん、多くの人たちが私の前からスーッと去っていきました。 ”桃李成蹊” とは逆の現象が私の目の前で起こったのです。
あのとき自分は、もう政治の世界から退こうと思いました。しかし、成蹊学園の学友や同窓の方々から、安倍元気を出せと、元気になってもう一度頑張れよ、と励まされました。あの時ほど嬉しかったことはございません」
安倍さんが総理在任中はあまり意識しなかったのだが、今回当時のビデオを注意深く見ていて、聞いていて、気が付いた。
「勇気をもって前進し、社会を変革していかねばならない」
「新しいことにチャレンジしよう」
「失敗してよい。やり直せばよいのだ。失敗を恐れて改革の手を緩めてはいけない」
「日本を改革して前進させて、希望に満ちた国にしよう」
などなどの、「改革・チャレンジ・前進」という言葉をひんぱんに発しておられたことを知った。
昭恵夫人のお礼の挨拶も心にしみた。
「晋三さんは成蹊が大好きでした。総理在任中はいろいろなことがありました。その時、成蹊のお仲間と食事やゴルフを一緒にしたり、また成蹊学園から呼ばれたりする時が一番嬉しそうでした。国葬をしていただき、また山口県民葬もしていただきました。ありがたいことです。でも、本日の成蹊学園の行ってくださったこのお別れの会で、私は一番多く涙が出ました。
今日このあと、晋三さんの遺骨を抱いて、大好きだった成蹊学園の周りの景色を、晋三さんに見せてあげます。その後、遺骨を自宅に持ち帰り、近いうちにお墓に納骨します。
骨になったとはいえ、納骨する前に、晋三さんを本人が大好きだった成蹊学園のキャンパスに連れてくることができて良かったです。本日は、本当にありがとうございました」
半旗の成蹊学園 令和4年11月27日 |