2023年3月12日日曜日

張騫とシルクロード(3)

 シルクロードのものがたり(9)

張騫、大月氏国に向かう(1)

司馬遷の「史記・大苑列伝」は言う。

「大苑(だいえん・天山山脈の北西部にあたるカザフスタン南部・キルギス北部あたり)の事跡は、張騫が西方に使いしてから明らかになった。当時、天子が匈奴の投降者に問うと、みな言った。 ”匈奴の単于(ぜんう)は月氏(げっし)の王をやぶり、その頭骨で飲酒の器をつくりました。月氏は遁走し、つねに恨んで匈奴を仇(かたき)視しております”

時あたかも漢は匈奴を撃滅しようと考えていたので、これを聞いて月氏に使者を送ろうとした。月氏への道はどうしても匈奴領内を通過しなければならなかった。そこで、よく使者となりうるものを募集した。騫(けん)は郎官の身分で募集に応じ、月氏に使いすることになった。

堂邑県(どうゆうけん・現在の江蘇省)出身の、もとの奴僕であった匈奴人の甘父(かんほ)とともに、隴西(ろうせい・現在の甘粛省)を出て匈奴領を通過した。匈奴はこれを捕らえて単于のもとに送った」


漢の武帝が16歳で即位したのはBC140年で、張騫が100人余を率いて長安の都を出発したのはその翌年である。張騫の年齢はハッキリとはわからないが、20代の近衛将校だったと想像する。冒険心に富んだ若者だったのであろう。

漢の初代の皇帝・劉邦が即位したのはBC202年だから、その63年後である。劉邦が即位したころの匈奴の王は冒頓単于(ぼくとつぜんう)という指導力のある大物で、匈奴の軍事力はすこぶる強大だった。劉邦は何度も匈奴と戦っているが、ことごとく敗戦している。「当時の漢は、項羽と攻防を展開し、中国は戦争で国力が衰退していた。それ故に、冒頓は自国の軍事力を強化することができた」と司馬遷は「匈奴列伝」に、その理由を冷静に分析して記述している。

以来60年間、漢は匈奴と条約をむすび、「穀物や絹など、匈奴の欲しいものを毎年与えるから攻め込まないでくれ」と匈奴に対して下手に出て、ひたすら自国の経済力と軍事力の強化に励んだ。5代目の皇帝・武帝が若くして即位すると同時に、漢帝国は北へ西へと、一気に勢力拡大路線に打って出たのである。


私が「月氏」、「大月氏」という言葉をはじめて聞いたのは、中学か高校の授業だった。「中国の西にある国だ」と社会の先生は説明してくれたが、どんな顔をした人々で、どのあたりに住んでいるのかわからず、雲のかなたのおとぎの国、のような印象を持った記憶がある。先生も深く理解していなかったような気がする。それから数十年。大月氏国がどこにあったかやっとわかった。自分にとって大発見で昂奮している。

さてその前に、張騫はどのあたりで匈奴の軍団に捕まったのか? 私の認識では、今日の中国の領土である「玉門」、「安西」、「敦煌」あたりの気がする。

800年後の盛唐の頃には、このあたり一帯は唐の支配の最西端にあたる。王維や李白の詩の中に、これらの地名は頻繁に出てくる。しかし漢の時代には、このあたりは中国の支配下に入っていなかった。

南ゴビ砂漠 辻道雄氏提供



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