シルクロードのものがたり(10)
張騫「大月氏国」に向かう(2)
司馬遷の「史記・大苑列伝」を続ける。
「単于は張騫を拘留して言った。” 月氏はわが北方にある。漢はどうして使者を往復させることができようか。考えてもごらん。わしが越(漢の南方の地)に使者を送ろうと思ったら、漢はあえて許すか。それと同じことだろう”
かくして、騫をとどめること10余年、妻をあたえ、子もできた。しかし、騫は漢の使者の節(しるし)を身につけていて失わなかった。匈奴人のなかに居住していて、取り締まりがますます寛大になったので、騫はそのともがらとともに逃亡して、月氏に向かい、西に走ること数十日で大苑(カザフスタン南部)にいたった」
匈奴の単于の対応は、なんとなくユーモラスでおおらかだ。先述の李陵や蘇武に対する対応も、同じような寛大さを感じる。「漢人の良質人材を優遇して自国の発展に使いたい」との考えがあったように感じる。捕虜として虐待しないで、むしろヘッドハントした高級人材として優遇していたようである。
蘇武の羊飼い19年もたいしたものだが、張騫の10余年、漢の使者の節(しるし)をを身につけてその志を失わなかった話にも感激する。
司馬遷の生年については諸説ある。もっとも古いBC145年説を採ると、彼が5歳のとき、張騫は大月氏国への使者として長安を出発したことのなる。張騫の遠征は漢帝国にとって、国威をかけた大イベントであったと思える。
司馬遷はその時は当然知らなかったが、張騫が10年の拘留ののち匈奴陣営を脱出して再度大月氏国に向かったのは、司馬遷が15歳の時となる。
司馬遷の家系は(どこまで本当かわからないが)、堯・舜の時代から歴史・天文をつかさどる一族といわれる。父親の司馬談が、「張騫はどうなったのか?生きているのか?殺されたのか?」と心配顔で人に語る姿を、少年の頃に何度も見ていたに違いない。
このように想像してみると、後日、司馬遷は張騫から直接聞き取り調査をして、「史記・大苑列伝」を書いたと考えるのが自然である。
干上がったアラル海 張騫が通過した頃は、満々たる湖であったに違いない 辻道雄氏提供 |
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