2024年8月2日金曜日

65歳の法顕、天竺に向かう(2)

シルクロードのものがたり(31)

 「高僧伝」に次のようにある。

「釈法顕、は平陽県武陽の人である。三人の兄がいたが、いずれも幼童の時に亡くなった。父親は禍いが法顕にまで及ぶことを恐れ、三歳で出家させて沙弥(しゃみ)とした」

「かつて若いころ、同学の者数十人と田圃の中で稲刈りをしていると、その時、腹をすかせた盗賊がその穀物を奪い取ろうとした。ほかの沙弥たちは一斉に逃げ出したが、法顕だけは一人留まって盗賊に言った。 ”もし穀物がほしいのなら、好きなように持ってゆくがよい。ただお前たちは昔、布施をしなかったために、ひもじくて貧しい結果を招いたのだ。今また人から奪い取るならば、恐らく来世でもっとひどい目に会うことになるだろう。拙僧はあらかじめ君たちのために心配するのだ” そう言って引き上げると、盗賊は穀物を投げ棄てて逃げ去った。数百人の僧侶たちは誰しも感服した」

「東晋の隆安三年(399)、同学の者四名たちとともに長安を出発し、西のかた流沙を渡った。空には飛ぶ鳥もなく、地には走る獣もなく、四方を見渡しても茫洋として行く先のあてもつかなかった。ただ太陽を見て東西を計り、人骨を望んで道しるべとするだけである。しばしば熱風が起こり悪鬼が現れ、それに出くわすと間違いなく死ぬのだが、法顕は縁に任せ運命のままに難所を突っ切った。しばらくして葱嶺(そうれい・タジキスタン東部のパミール高原)に到着した」


「高僧伝」では、長安を出発した法顕一行はいきなりパミール高原に到着している。どのようなルートでタクラマカン砂漠を超えたのか記載がない。文庫本13ページの記述なのでこれはやむを得ない。法顕の天竺行きのルートについては次回で紹介したい。

上記の、「法顕は縁にまかせて、運命のままに難所を突っ切った」の箇所に心を惹かれる。人生の大事は縁と運である。これに身をゆだねる、という気持ちがとても大切な気がする。


「高僧伝」の編者の慧皎(えこう・497-554)という人は、中国南朝梁(りょう)の時代の僧である。中国で仏教が最も栄えた「梁の武帝」の時代の僧であるから、本人も名僧であったに違いない。余談だが、この梁の武帝という人は陶淵明にぞっこん惚れ込んでいた皇帝である。自身で陶淵明の伝記まで書いている。


「高僧伝」は1世紀の中国への仏教伝来から、梁の武帝の時代に至るまで、およそ450年間に歴史に名を留めた名僧の伝記を集成したものである。法顕が亡くなったのは422年であるから、慧皎が生まれる75年前である。慧皎は、いわば法顕の孫か曾孫の世代の人である。よって、これに書かれた法顕の逸話は信憑性の高い話だと考えている。

















2 件のコメント:

  1. 「縁に任せ」のところで、その情景や心情を想像したことで、何か大切なことを思い出したような気がいたしました。

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  2. 読んでくださり、ありがとうございます!

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