2024年8月6日火曜日

65歳の法顕、天竺に向かう(3)

 シルクロードのものがたり(32)

長安から半年かけて張掖(ちょうえき)へ、張掖で1年を過ごす

法顕がどのルートでインドに渡ったのか調べてみたい。帰りはセイロンから商船に便乗して中国の山東省に帰っている。膨大な量の経典を持ち帰るのだから、ラクダや馬・ロバに頼るよりは危険ではあるが船の方が便利である。よって、法顕のインド行きの陸路は往路のみとなる。かたや200年後の玄奘三蔵は、往路・復路とも陸路を歩いている。


シルクロードの陸路を、おおざっぱにいえば、次の3つとなる。

①天山北路(天山山脈の北側ルート)

②天山南路・西域北道(天山山脈の南側ルートで、タクラマカン砂漠の北側を通る)

③天山南路・西域南道(タクラマカン砂漠の南側ルートで、崑崙(こんろん)山脈の北側を通る)   

これらのルートは単純に3つの道が西に向かっているというわけではない。いくつもの「バイパス」があり、その時の軍事・政治状況や天候に合わせて、旅人は柔軟にコースを変更していたようである。私は③のルートを「崑崙(こんろん)北路」と呼ぶのが地理的に適切でクリアな表現だと思うのだが、だれもそのようには言っていない。

中央アジアの地図をじっと眺めていると、①の天山北路を旅するのが気候的に一番楽な気がする。ただ、インドに行くためパミール高原にたどり着くまでの距離は、②③に比べると1・5倍以上になる。やはり長い道のりが問題だったのであろうか。法顕も玄奘もこの①のルートは通っていない。

法顕はホータン(和田)を通っているので、大きな分類では③の天山南路・西域南道を通ってインドに向かっている。ただ単純な③コースではなく、あちこちを迂回しながら進んでいる。玄奘は、往路は②天山南路・西域北道を歩き、復路は③天山南路・西域南道を歩いて中国に帰っている。玄奘の歩いたコースは比較的すっきりしている。

法顕の歩いた足跡を見ると、じつは当初は玄奘と同じく②の天山南路・西域北道を進もうと考えていたことが感じられる。何かやむを得ない事情でそのルートをあきらめ、途中のクチャには立ち寄らず、クチャ(庫車)の東南あたりから南西に進路を取り、無謀にもタクラマカン砂漠のまっただなかを横断してホータン(和田)に到着している。なぜこのような危険なルートを進んだのか、現時点では私にもわからない。そのうちにわかるかも知れない。法顕と玄奘の足跡をたどると、法顕のほうがより危険な旅であったように私には思える。


もとにもどる。

法顕は長安を出発した。ここから瓜州(安西)までは河西回廊という北西に続く一本道である。黄河上流の西側を通る道だ。瓜州(安西)が3つのシルクロードの出発点である。長安から瓜州(安西)までは距離にしてざっと1500キロ程度で、1日に20キロ進めば70-80日あれば到着する。

ところが法顕が長安を出発したのが399年の3月で、瓜州(安西)に着いたのが400年の8月頃である。長安を出発して1年半を要している。途中の蘭州(らんしゅう)で3ヶ月、張掖(ちょうえき)で1年近く滞在している。張掖での1年滞在の理由は、ある事件が勃発したための政治的な理由による。

敦煌の太守の孟敏(もうびん)が死去した。敦煌に対して行政と軍事の指揮権を持っていた張掖に住む北涼王・段業(だんぎょう)は、新たに索嗣(さくし)という男を後任に任命した。索嗣は500人の将兵を引き連れて敦煌に向かった。

ところが敦煌ではすでに李暠(りこう)という男が、部下たちに推されて敦煌太守に就任していた。李暠はいわば敦煌を乗っ取ったといえる。当時はこのようなことは頻繁におきていて珍しいことではない。実力と人望がある者がその地位についた。

策嗣以下の将兵は李暠に一喝されて追い返されてしまった。それどころか、李暠は「北涼国・ほくりょう」から離れることを宣言して「西涼国・さいりょう」を建国し、自らを西涼王を名乗った。

不測の事態が発生したため、北涼王・段業は張掖ー瓜州(安西)-敦煌間の往来を一時的に閉鎖した。この段業という人は、為政者としては凡庸で優柔不断な人であったらしい。ただし、旅客のあるじ(パトロン)としては良い人であった。法顕一行に対して極めて親切に丁重に対応している。

もともと長安出身の貴族である段業は、武人というより文人肌の人で、法顕に対しての好意と入れ込みようは尋常ではなかった。「問題解決のため多少の時間を要します。安全が確保できるようになれば部下に送らせます。それまではごゆるりとこの町で暮らしてください」と法顕に丁寧に伝え、衣食住の十分な手配をした。このような背景の中で、法顕一行は1年間この地に留まり、近郊の寺の仏事に参加したり、周辺を見学している。



















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