シルクロードのものがたり(33)
敦煌太守・李暠(りこう)のこと
前回述べた、敦煌太守を称し同時に西涼王を名乗った李暠という人物について語りたい。この李暠という男は、文人肌の凡人・段業の太刀打ちできる相手ではなかった。
李暠は軍事・政治の実力と同時に、部下からの人望が厚かった。字は玄盛(げんせい)、隴西郡狄道県(ろうせいぐん・てきどうけん)の人である。隴西郡とは秦代から唐代にかけて、現在の甘粛省の東南部にあった。現在の甘粛省の大きな地図を見ると隴西という地名がある。郡はなくなったものの隴西という地名は現在も中国に残っている。その隴西の東南150キロに天水という町が見える。
この李暠は漢の将軍・李広の16世の孫だといわれる。「桃李言わざれども下おのずから蹊(こみち)を成す」のあの李広である。李広の孫が李陵であることは言うまでもない。李広については2022年11月20日のブログで「李将軍列伝・桃李成蹊」で紹介した。李陵については、このシルクロードのものがたりの(3)(4)で紹介した。じつは、上記の「天水」こそ、漢の将軍・李広の生まれた場所なのだ。
孤軍奮闘した李陵は匈奴に投降した。捕虜になったあとも李陵は漢に対する忠誠心を失わず、張騫と同じく脱出再起を図っていた。ただ、同じ李という名前の将校が匈奴の兵士に軍事教練をしているとの情報が武帝の耳に入った。武帝は、誤ってこれを李陵だと判断し、すぐさま李陵の母親・妻子を処刑したと「漢書」は記している。これは武帝の大きな過ちであった。
史書には書かれてないが、この時、長安にいる李陵の友人、もしくは親戚の者が李陵の幼い息子を匿ったのではあるまいか。かくまう場所としては、李家の墳墓の地である「天水」が自然である。もしかしたら、もしかしたら、これを背後で画策したのは司馬遷であったかもしれない。
漢の時代はすでに遠くなり、投降したとはいえ、奮戦した李陵の物語は、「漢書」はかなり同情的に描いている。李暠は武人として、先祖の名を背景に、人びとの尊敬を受けていたのではあるまいか。彼の曾祖父の李柔(りじゅう)という人は晋の北地太守になっている。
成蹊学園の卒業生である田頭は、李広と李陵には親近感と同時に強い尊敬の気持ちを抱いている。はからずもここで、李陵の14世のちの子孫が、成功した武人として歴史に登場したことがとても嬉しい。
じつは、この李暠(りこう)の物語には、まだ続きがある。
618年に唐王朝を創設したのは李淵(りえん・566-635)であるが、なんと李淵は「自分はこの李暠の8世の孫だ」と名乗っているのだ。そうだとすれば、唐王朝を創設した高祖・李淵は、あの李広将軍の24世の子孫ということになる。
「唐書」には、「唐王朝を創始した李淵すなわち高祖は隴西(ろうせい)の成紀(せいき)の人である」と書かれている。「成紀は現在の甘粛省天水あたり」と作家の陳舜臣は指摘している。すなわち、ここで、李広・李陵・・・李暠・・・李淵の全員の出身地が、現在の甘粛省の天水だとピタリと判明一致した。
李広・李陵ファンの私は、このことを知って感激している。
高祖李淵の次男で父親と共に唐の創建者とされる二代皇帝・太宗世民(たいそうせみん・598-649)が即位した時の話が「貞観政要(じょうかんせいよう)」という書物の中に書き残されている。この太宗は、中国史上有数の名君といわれる。
太宗が即位した年(626)、臣下が盗賊防止のために、厳罰主義を採ることを進言したのに対して、太宗は次のように答えた。
「民が盗みをはたらくのは、税金が重く、夫役が重く、官吏がむさぼり求めるので、飢えと寒さにせまられ、恥をかえりみなくなるからだ。私はぜいたくをやめ、冗費を省き、夫役を軽くし、税金を安くし、清廉な役人を選ぼうと思う。そうすれば盗みをするものはいなくなる。厳罰を以て臨む必要はない」
ご先祖の李広・李陵が聞いたら、泣いて喜びそうな返答である。
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