シルクロードのものがたり(36)
中国からの姫、繭(まゆ・シルク)を冠の中に隠しホータン王に嫁ぐ
法顕はクチャには立ち寄らず、その南東あたりから、南西に向かってタクラマカン砂漠を横断し、ホータンに到着した。401年の3月頃と思われる。35日間をかけての危険な沙漠の横断で、法顕は次のように記している。「この行路中には住む人もなく、沙漠の艱難と苦しみはとうていこの世のものとは思われなかった」
玄奘三蔵がインドからの帰路、このホータン(和田)に立ち寄ったのは646年だから、法顕が訪問した245年のちである。玄奘三蔵は、この時ホータンで聞いたある伝説を「蚕種西漸伝・さんしゅせいぜんでん」として「大唐西域記」に書き残している。
「その昔、この国では桑や蚕(かいこ)のことを知らなかった。東方の国にあるということを聞き、使者に命じてこれを求めさせた。ところが、東国の君主はこれを秘密にして与えず、関所に桑や蚕の種子を出さないように厳命した。ホータン王はそこで辞を低くしてへりくだり、東国に婚姻を申し込んだ。東国の君主は遠国を懐柔する意思を持っていたので、その請いを聞き入れた。
ホータン王は使者に嫁を迎えに行くように言いつけ、”汝は東国の君主の姫に、わが国には絹や桑・蚕の種子がないので持ってきて自ら衣服を作るようにと伝えよ” と言った。
姫はその言葉を聞いてこっそりと桑と蚕の種子を手に入れ、その種子を帽子の中に入れた。関所にやって来ると役人はあまねく検索したが、姫の帽子だけは調べる非礼はしなかった。それで種子を携えたまま、ホータン国の王宮に入った」
井上靖・長澤和俊の両泰斗は、このことを次のように解説している。私にはこの説明が理解しやすい。
「昔、西域南道一帯に勢力を張っていたホータン王は、絹をつくりだす秘法を東方の国(中国)に求めたが、養蚕の技術は国外不出なので中国の君主はこれを許さなかった。しかし中国人が愛玩する玉(ぎょく)を産する西域の強国、ホータン王の願いを無下にしりぞけることは憚られたのであろう。中国の君主は、その王女をホータン王に嫁がせることでこれを懐柔しようとした。
ここで一計を案じたのがホータン王である。彼は妃となるべき王女に、ひそかに蚕の繭玉を持ち来るよう、使いを遣って依頼した。王女は未来の夫の言いつけをよく守った。彼女は自らの冠の中に蚕の繭玉を忍ばせ、みごと国禁を犯してそれをホータンの国にもたらしたのである」
ここで「玉(ぎょく)」という言葉が出てきて、私は大きく納得した。ホータンは古来から玉(ぎょく)の名産地である。シルクロードは言葉を換えれば、ホータンの玉が中国へ運ばれる「玉の道」でもあった。もしかしたら、「絹の道」よりも「玉の道」のほうが古い歴史があるような気がする。これについでは、またどこかで語りたい。
中国の君主が玉を産するホータン王に気を使った、というのは理解できる。
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