2024年9月30日月曜日

65歳の法顕、天竺に向かう(10)

 シルクロードのものがたり(39)

法顕、ローラン(楼蘭)を経由して天山山脈の南東・カラシャール(烏夷国)に到着す

今のペースで筆を進めると、法顕が船で中国に帰り着くまでに、あと20回ほど書くことになりそうだ。これでは読者も飽きてくると思う。よって、話を大幅にスピードアップしていきたい。あと4-5回で法顕の話を終えたいと考えている。


敦煌からローランまで17日間で到着した。法顕は次のように書いている。

「敦煌太守・李暠が資財を提供してくれたので、沙河(さか・敦煌ー楼蘭間の大沙漠)を渡った。見渡すかぎりの沙漠で、ただ死人の枯骨を標識として進んだ。行くこと17日、鄯善国(ぜんぜんこく・ローラン)に着いた。その地はやせてゴツゴツしており、俗人の衣服はだいたい中国と同じで、ただ生地が毛織物である点が異なる。国王は仏教を奉じおよそ4000人の僧がいる」

「ここ鄯善国(ローラン)にひと月滞在し、また西北に行くこと15日で烏夷国(ういこく・カラシャール)に到った」

烏夷国(カラシャール)は天山山脈の南東に位置し、パグラシュ湖の北西にある。ここでの法顕一行に対する地元民の対応はすこぶる悪かったようだ。ずいぶん悪口を書いている。

「中国の僧はこの国の僧たちの儀式の仲間に加えてもらえない。烏夷国の人は礼儀知らずで、非常に粗末に一行を待遇したので、智厳(ちげん)等三人の僧は引き返して高昌国に移り、旅の資金を求めようとした。法顕らは符公孫(ふこうそん)から出資の提供を受けたので、二ヶ月余り滞在したのち、西南方面に直進することができた。この行路中は住む人もなく、艱難、経験した苦しみは、とうていこの世のものとは思われなかった。こうして旅すること35日、干闐国(うてんこく・ホータン・和田)に到ることが出来た」


この箇所は少し説明が要る。なぜカラシャールの人々が、法顕一行に対して冷淡であったかを知るために。

法顕一行がこの烏夷国(ういこく・カラシャール)に到着する十数年前のことである。前秦(ぜんしん・五胡十六国の一つ)の王・符堅(ふけん)は、配下の将軍・呂光に7万の兵を与えて、カラシャール(烏夷国)およびクチャ(亀茲国・庫車)方面を攻略させるため軍団を送った。この地域を自己の支配下に置き、同時に亀茲国の秘宝といわれた僧・鳩摩羅什を拉致・獲得するためである。382年9月のことだ。

384年7月、呂光は亀茲(クチャ)城の攻略に成功した。ところがそれ以前、383年に淝水(ひすい)の戦いにおいて、符堅は晋軍に大敗し敗走したのである。符堅は385年に殺され、前秦は滅亡した。

本国がこのような状態であることを知った将軍・呂光は、いったん占領した亀茲(クチャ)・烏夷国(カラシャール)地方を放棄して中国に帰国する。385年のことである。この時、2万頭のラクダに略奪した金・銀・財宝を積んで中国に持ち帰ったと伝えられている。私が高校生時代に使った「世界史年表」を見ると、この呂光について、「386年呂光自立・後涼国」と書かれている。1600年後の異国の高校生の使う年表に記載されるのだから、呂光もかなりの大物だったようだ。

このような出来事のたった15年後である。中国人僧の法顕一行がカラシャールで歓迎されるはずは元からなかったと言える。この国において、ただ一人親切にしてくれた、と法顕が書き残している符公孫(ふこうそん)という人物について語りたい。


名前から察せられる通り、じつはこの人は秦王・符堅(ふけん)の甥であった。この人の烏夷国での立場はきわめて微妙であった。大王・符堅は将軍・呂光に対する目付け役として、この甥を文官として遠征軍に加わらせていた。中国における符堅の敗北を知った呂光は、獲得した西域の領土を放棄して奪った財宝を持って中国に帰る決意をした。ところが、呂光は放棄とは言わなかった。「大王・符堅さまの甥の符公孫を都督として、西域の経営の一切をまかせる」と宣言して、自分は7万の兵と2万頭のラクダを連れて中国に帰ってしまったのだ。

いってみれば、符公孫は置き去りにされたのだ。四面すべてが敵である。一兵も帯びず、この都督の役がつとまるわけがない。自立を決意した呂光にとって、旧主の甥は厄介な存在であった。簡単に殺すことはできない。呂光の部下の中には符堅の恩顧の将校が何人もいた。東帰するにも、「前王の遺志を継いで」という旗印が要る。だからその甥を殺してはならない。そうかといって東帰に同行させばその処遇に気を使わねばならない。そこで考えたのが、置き去りであった。

掠奪した財宝を2万頭のラクダに乗せて引揚げた占領軍は、ただ都督という名だけの符公孫一人を残して去って行った。「ここで死ね」という意味にひとしい。

ところが符公孫は死ななかった。

「私は仏教に帰依します」 呂光が烏夷国を立ち去った直後、符公孫は烏王にそう宣言して、個人の財産すべてを寺院に喜捨した。呂光からもらった「都督」の印綬も放棄した。しかし、彼の命を救ったのはこれらの行為ではなかった。普段の彼の生活態度にあったのだ。彼は当初から、この国の人たちに謙虚な姿勢で親切に接した。征服者的な言動は一切しなかった。烏夷国王やその側近たちは、呂光と符公孫のどちらが悪玉でどちらが善玉かは当初からわかっていたようだ。すなわち、符公孫は彼らの同情を得て、好かれていたのである。

符公孫には烏夷王から、定期的に給与が渡されていた。よって、法顕一行の二ヶ月程度の食事の提供にはまったく問題はなかった。ただ法顕一行のインド行きには、ラクダや人夫の手配でまとまった資金が必要である。符公孫は法顕にこう言った。

「伯父の大王の腹心の将校がおりました。呂光が引き揚げるときその人物が私を訪ねてきました。むろん呂光側近の人たちが監視しています。うかつなことは言えません。私は彼を送り出すとき、庭を横切って門に行くまで、二人きりになりました。そのとき彼は小声でこう申したのです。”万一のときの用意に、かくかくしかじかの場所に財宝を埋めておきました” と」その後、15年間、符公孫はこの財宝にはまったく興味がなく放っておいたという。

「いまこそ、その人物が言った、万一の時が来たのだと思います」符公孫は法顕にそう語った。その後の符公孫のことは、史書には何も書かれていない。おそらくこのカラシャールの地で没したのだと思われる。しかしこの人は、法顕へ喜捨したことに満足して、幸せな気持ちで死んでいったに違いない。

「クチャ(亀茲・庫車)には絶対に立ち寄ってはいけない。命の危険がある。それよりも、タクラマカン沙漠を横断するほうがまだしも危険が少ない」こう強く法顕に忠告したのは、この符公孫であったと、私は考えている。


提供 辻道雄氏













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