2024年9月22日日曜日

65歳の法顕、天竺に向かう(9)

 シルクロードのものがたり(38)

法顕、安西(瓜州)を経由して敦煌に到着す

法顕はまだ張掖(ちょうえき)にいるのに、王維の詩とか、ホータン(和田)の絹(シルク)の話とか、ずいぶんと先回りをしてしまった。


法顕が一年ほど張掖に滞在しているあいだに、敦煌の太守問題は解決した。李広将軍の16代の孫・李暠(りこう)が勝利したのである。北涼王・段業側についていた晋昌(酒泉)太守の唐瑶(とうよう)が、段業に反旗をひるがえして李暠を支持したのだ。これ以上李暠と対立していたら自分の身が危うい。そう考えた段業は李暠に鎮西将軍の称号を与えた。李暠の自立を認めた恰好である。史書は李暠について、「温毅(おんき)にして恵政有り」 と書いている。民に情をかける仁徳の人だったようだ。

張掖を出発する際に、段業は護衛の兵士をつけ、法顕にラクダを贈った。法顕はここではじめてラクダに乗っている。長安から同行した四人の僧に加え、張掖周辺の五人の僧が徒歩であとに続いた。このように多い時には十人程度の僧が法顕に従っているが、かならずしも法顕が全体を指揮する統率者といった感じではない。その後も、問題が発生して次の目的地を決める際には、法顕は各自の意見・希望を尊重している。途中で法顕とわかれ別の方向に向かった僧が何人もいる。

張掖から安西(瓜州)に向かう中間点に、酒泉(しゅせん)という町がある。

この町の名は、前漢の大将軍・霍去病(かくきょへい)に由来する。霍去病はBC121年に匈奴を攻撃して河西の地を奪取した。これを喜んだ武帝は、霍去病のもとに十樽の酒を送り届けた。全兵士に飲ませてやりたいと思ったが、それほどの量ではない。霍去病は近くにあった泉に兵士を集め、酒をそそいだ。すると泉の水はたちまち芳醇な酒となり、兵士全員が飲むことができたという。それ以来、この泉は酒泉と呼ばれ、やがて町の名になったという。いい話である。

ちなみに、この李暠は敦煌における鎮西将軍に満足せず、西涼(せいりょう)国を建国し、みずから西涼王を名乗った。そして405年この酒泉の地に遷都した。西涼国の領土は現在の内モンゴル・トルファン・張掖一帯に及んだというから、日本の面積より広い。

安西(瓜州)で休養を取った法顕一行は、150キロ西の敦煌に向かった。敦煌に着いたのは400年の9月で、1カ月ほど滞在して10月に出発している。敦煌では太守の李暠と直接面談をして、次の目的地までの支援を要請している。李暠は快諾し、必要な物資の補給と護衛の要員について確約した。

法顕が1ヶ月あまり滞在している間に、敦煌では新朝廷樹立の準備が進められていた。李暠は新政権の樹立を西方の国々に知らせたいとの意向を持っており、その使節団に法顕一行は同行することになった。

次の目的地はローラン(楼蘭・鄯善国・ぜんぜん)である。これは理解できる。地図を見ればローランに向かうのは自然である。ところが法顕はこのローランのあと、北西に進路を取りカラシャール(烏夷国・うい)に向かう考えを持っていた。カラシャールは天山山脈の南東の端に位置し、パグラシュ(ボスデン)湖という大きな湖の北にある。トルファン(高昌国)とクチャ(亀茲・庫車)の中間あたりである。あと戻りとまでは言えないものの、相当なデビエーション(離路)となる。結果として、法顕はこのカラシャールに到着している。


不思議である。インドに早く到着するには、ローラン(楼蘭)からタクラマカン砂漠の南を通る西域南道を歩き、ホータン(和田)を経由してパミール高原を超えるのが常識だ。

ここから先は私の想像である。

〇一つは李暠の使節団が、当初からローランのあとカラシャールに行く予定があり、これに同行するのが安全だと考えたのか。

〇二つめは、カラシャールのあと天山南路・西域北道(玄奘三蔵が往路に通った道)を通ってクチャを経由して、パミール高原に向かう考えを元から持っていたのか。

〇三つめは、クチャ(亀茲・庫車)の北方にある千仏洞を含め、天山南路・西域北道に点在する数多くの仏教寺院や遺跡を見学したいとの希望があったのか。

私が考えられるのは以上の三つだが、その時、法顕が何を考えていたのかはわからない。


ラクダの隊商 提供 辻道雄氏





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