シルクロードのものがたり(37)
中国からの姫、繭(まゆ・シルク)を冠の中に隠しホータン王に嫁ぐ(2)
玄奘三蔵がホータンでこの話を聞いて1200年余り経った20世紀の初頭、英国の考古学者のオーレル・スタインは、この伝説の物語を描いた一枚の板絵をホータン北東の沙漠の中の仏教遺跡から発見した。
大英博物館に保管されているこの板絵は、高さ12センチ、幅46センチで、6世紀のものとの説明がある。日本の神社に奉納される絵馬に似た感じの板絵である。
左から二番目の人物が中国からホータンに嫁いだ王女で、左の人物は侍女で王女の冠を指している。王女の右の像は織物の守護神、その右はホータン王といわれている。科学的な測定により、この絵が描かれたのは6世紀ごろというのは間違いないらしい。それでは、この王女が中国からホータンに嫁いできたのはいつ頃なのか?との疑問が湧く。
川村哲夫氏はその著書「法顕の旅・ブッダへの道」の中で、次のように述べている。
「ホータンに養蚕の技術が持ち込まれた時期は定かではないが、前漢の武帝によって匈奴の勢力が駆逐された以降で、かつ後漢の班超(はんちょう・この人は「漢書」をまとめた班固・はんこ・の弟である)が西暦78年にホータン(和田)に遠征した以前であろう。すると西暦一世紀の前半あたりということになる」
常識的に考えてうなずける話で、私もこれに納得する。倭国の北九州の豪族に「漢委奴国王」の金印をくださった後漢の光武帝(在位25-57年)の頃、このお姫様はラクダに乗ってホータン王に嫁いできたと考える。
スタインは、掘り出されたこの板絵が何を意味するのかわからなかった。長い間土中にあったので、ぜんたいに黒ずんでいた。彼は現状のままロンドンの大英博物館にこれを送った。1901年のことである。博物館では科学的な洗浄をおこない、板絵の絵はかなりあざやかに見えるようになった。しかし、この板絵が何を意味するのか、博物館の職員にもわからなかった。
仏寺跡から出土したものなので、仏教に関係があると思い、当初は仏伝やブッダの生前の物語を調べたが該当するシーンはない。いくばくかの時が経ったとき、誰かが玄奘三蔵の「大唐西域記」の中の記録と一致することに気付いた。英国人の中にも、玄奘三蔵を深く研究した偉い人がいたらしい。
絹を伝えたこの王妃は、この地で神として祀られたという。よってこの板絵は、ホータン王妃の子孫か、あるいは絹の製造業者が、その600年ほど後に、絹を伝えたこの王妃を讃えて奉納したものかも知れない。スタインの調査によれば、ホータンの3世紀の地層に、桑が栽培された形跡が認められるという。
このお姫様は、長安を出発してはるばるとホータン王に嫁いだ。ラクダの背に乗って半年以上の旅だったに違いない。月が出ていれば、沙漠は夜のほうが涼しい。満月の月明りを浴びながら、このお姫様は、夫となる国王がどんな人かと、期待と不安の気持ちを抱きながら、西へ西へと旅を続けたのであろう。
神として祀られたことからして、このお姫様はきっと王様にも可愛がられ、ホータンの人々からも慕われ、この地で幸せな人生を送ったに違いない。よかった。よかった。
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