50年前の浪人生との再会(3)
自宅で美味しいリンゴとお茶をいただきながら、1時間ほど語り合う。50年間の出来事を1時間で語り尽くすのはむずかしい。「青年は弘前の人で医者の息子」と私は長い間ずっと思っていた。なぜ北の果てのむつ市で医者をやっているのか、何か問題をおこし父親に勘当されたのだろうか、と気にしていた。このことをお聞きした。
そうではなく、元々むつ市の生まれだとおっしゃる。両親が教育に理解があり、中学・高校の6年間を弘前市に遊学させてもらった。親は立派な職業だが医者ではない。50年前に弘前高校の卒業だと聞いた私は、本人が医学部を目指して勉強していたので、勝手に弘前の医者の息子だと思い込んでいたようだ。陸軍士官学校を卒業して硫黄島から生還された陸軍中尉の父上の若い頃のものがたりは、戦史に関心を持つ私にはとても興味深いものだった。
自宅からホテルに移動する前、「ちょっと私の研究所を覗いてください」と言われる。外科医の研究所というから、人間の骨でも飾ってあるのかな、と恐る恐るついていく。自宅の隣が駐車場で、その向こうに研究所がある。入口にモーターバイクが2・3台並んでいる。ドアを開けると中にもバイクが置いてあり、バラバラに解体してそれを再度組みなおしている様子だ。おびただしい数の工作道具が整然と置かれている。これはまさにモーターバイクの修理工場だ。「これが趣味なんですよ」と笑いながらおっしゃる。
このあと自宅近くのホテルにチェックインしてシャワーを浴びる。二人が6時半前に迎えに来てくださり、徒歩で夕食の場所に向かう。
田名部(たなぶ)の中心街を歩いているらしい。『街道をゆく・北のまほろば』の中に、司馬遼太郎が旧会津藩士の末裔の人たちと夕食を一緒するくだりがある。ふとそれを思い出し、「あの店はこの近くですか?」と二人に尋ねると、「そこの右側のお店です」と奥様が答えてくださる。ご主人だけでなく奥様も相当な読書家のようだ。
夕食の店に着いた。「東(あずま)寿し」という立派な寿司割烹だ。店の前を清流が流れていて小さな橋を渡って店に入る。この店の経営者とも二人は親しい仲のようだ。出てくる料理のすべてが極上の味だ。私はビールのあと純米酒を一合いただく。山崎医師はビールのジョッキ2杯を軽く空けた。さらに日本酒を注文して、奥様を交えて3人で酒盛りを続ける。実に愉快だ。
「堀さん、内島さん、中村さんはお元気ですか?」と突然山崎医師が問うたのには驚いた。3人とも私の成蹊の学友だが、この3人と隣の部屋の青年が会ったのは、多くても2-3回のはずだ。しかも50年前のことだ。立派な大学の医学部に合格したのだから、青年はもともと頭が良かったに違いない。でも、それだけが理由とも思えない。この3人の言動の何かが、当時20歳前後の青年の心に響いたのではあるまいか。ともあれ、50年前の青年が私の学友3人の名前を憶えていたことに、とても不思議な思いがした。
青年からもらった『一休狂雲集』をカバンに入れていた。「贈 田頭東行大兄 昭和五十二年七月二十九日 山崎總一郎」と書いてある。
「久しぶりです。一筆書いてください」とお願いした。山崎医師は口元にわずかに笑みを浮かべて私の万年筆を握った。
「犬も歩けば、猫も歩く。再会50年 山崎總一郎」
禅味のある、じつに味わい深い言葉である。
令和六年。今年も楽しいことがいくつもあった。その中でも、私にとっての楽しいことの筆頭がこの下北半島への旅であった。山崎ご夫妻に心から感謝している。