2024年10月14日月曜日

65歳の法顕、天竺に向かう(12)

 シルクロードのものがたり(41)

法顕は、病気はしなかったのだろうか?

65歳で長安を出発して陸路インドに向かい、77歳でセイロンから商船に便乗して海路中国に帰った。この事実からしても、法顕が頑強な人だったことがわかる。65歳で天竺に行こうと考えるだけでも、体力には自信があったのだろう。

しかし、法顕とて人間である。病気をしたり弱気になったりしたことはなかったのだろうか?インドに到着するまでの「法顕伝」や他の書物を読む限り、そのような事実は見えない。むしろ、自分の強い体力をベースに物事を判断したために、他者への思いやりに欠けていたのではないか、と反省する場面が見える。

パミール高原を超えて現在のアフガニスタン領に入った。ヒンズークシ山脈のふもとを通って、現在のカブールの東方・ジャラバードあたりからカイバル峠を越える。このあと現在のパキスタン領に入り峠をくだり、インダス川を渡る予定だ。このカイバル峠はインドに入るための重要拠点で、かつてはBC4世紀にアレキサンダー大王が、7世紀には玄奘もこの峠を越えている。

このあたりで慧景(えけい)という青年僧が、口から白い泡を吹いて亡くなった。高山病だったのかも知れない。じつは、ここに到る以前にも、3人の僧が中国に引き返している。このとき、「頑張れ、頑張れ。初志を貫き天竺まで行こう」と法顕は僧たちを励ましている。ところが、僧の一人は「あなたは常人ではありません。私たちは平凡な人間です」と答えている。これは法顕の強靭な体力を言ったものと思える。

「わかった。気を付けて帰りなさい」と法顕は答えている。このようにして、無事にインドに到着したのは、法顕と道整(どうせい)という青年僧の二人だけであった。


ところが、ある書物で、「法顕がインドで病気にかかって弱気になり、しょんぼりしていた」という話を発見した。法顕も人の子であったのだと、私はこの話に興味を持った。

ある書物とは、吉田兼好の「徒然草」である。第八十四段に次のようにある。

法顕三蔵の天竺に渡りて、故郷(ふるさと)の扇を見て悲しび、病(やまい)にふしては、漢(かん)の食(じき)を願ひたまひけることを聞きて、「さばかりの人、むげにこそ、心弱き気色(けしき)を、人の国にて見えたまひけり」と人の言ひしに、弘融僧都(こうゆうそうつ”)、「優(ゆう)になさけある三蔵なり」と言ひたりしこそ、法師の様にもあらず、心にくくおぼえしか。

私の成蹊の古い先輩である川瀬一馬先生は、次のように現代語訳されている。

法顕三蔵がインドへ渡って、故郷の扇(おうぎ)を見ては悲しみ、また病気にかかっては、故郷(中国)の食物を欲しがられたことを聞いて、「それほどのえらい人が、ばかに弱気なところを、他国でお見せになったものだ」とある人が言ったところ、弘融僧都(こうゆうそうつ”)が、「やさしくも、情味のある三蔵だな」と言ったのは、坊主のようでもなく、おくゆかしく感ぜられたことだ。


私も兼好法師と同じ思いだ。この話を聞いて、ますます法顕が好きになった。弘融僧都は仁和寺の僧であったと解説にある。兼好法師とこの人は仲良しだったような気がする。

吉田兼好は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての人だ。この頃、日本ではこの法顕について、読書階級の多くが知っていたようである。






2024年10月7日月曜日

65歳の法顕、天竺に向かう(11)

 シルクロードのものがたり(40)

法顕、ホータン(和田)を経由してパミール高原を超える

法顕はホータンが大いに気に入ったようだ。カラシャール(烏夷国)での冷たい仕打ち、タクラマカン砂漠を決死の覚悟で横断をしたあとである。これを思えば理解できる。

「この国は豊かで人民の生業は盛んである。人々はみな仏法を奉じ喜び楽しんでいる。僧侶はなんと数万人もいる。国王は自分たちを大乗学の寺に住まわせた。この寺では三千人の僧が、ケンツイ(日本の禅寺の魚板のようなもの)を合図に食事をする。一切が寂然(じゃくぜん)として器鉢(きはつ)の音一つしない。給仕人に食物をおかわりするときは、声を出して呼んではいけない。ただ手でさし招くだけである」

ホータンの人々の親切に感謝し、彼らに対する尊敬の気持ちが感じられる。このホータンに3ヶ月滞在したあと、法顕は何人かの僧と一緒にタクラマカン砂漠の南を西に歩き、パミール高原を超えることになる。


ここで少し趣(おもむき)を変えて、法顕が長安を出発したあと滞在した町々の現在の様子を眺めてみたい。滞在はしないが、名前の出たいくつかの町も簡単に紹介したい。これらは、2021-2022年版の「地球の歩き方」を参考にした。

「蘭州・らんしゅう」  長安から西北600キロの都市で、法顕はここで3ヶ月滞在している。物資や人夫の手配をしたのだと思う。この町の現在の人口は322万人とあり、甘粛省の省都でもあり、青海省に発した黄河が初めて通過する大都市である。李広将軍・その孫の李陵の故郷の天水は、長安とこの蘭州の中間点にある。

「張掖・ちょうえき」 北涼王・段業の庇護のもと、ここで1年間滞在した。この町は元(げん)の時代にマルコ・ポーロも1年近く滞在している。現在の人口は132万人。中国の人口は漢の時代に約6000万人で、現在はその20倍といわれる。これを参考に推定すると、法顕がこの張掖に滞在したころの人口は10万人程度だったと思える。

「酒泉・しゅせん」  霍去病(かくきょへい)が武帝からもらった十樽の酒を泉に入れて、兵士全員が歓喜して飲んだこの場所は、現在は人口101万人の都市である。

「敦煌」  李広将軍の16代孫の李暠に1ヶ月世話になったこの町は、現在でも多くの観光客が訪れる。人口は14万人とある。

「高昌国・トルファン」  法顕自身はここに立ち寄っていない。烏夷国(カラシャール)での冷たい待遇に憤慨したとき「智厳・ちげん・等三人の僧は引き返して高昌国に移った」と記録するあの高昌国である。この高昌国は玄奘三蔵が往路で、この国の王様に異常なくらいの親切を受け、天竺に行かないで国師としてこの国に残ってほしい、と懇願された場所でもある。現在でも観光地として名高い。私の友人・先輩の二人もここを訪問したことを話してくれ、羨ましく思った。現在の人口は63万人とある。

「烏夷国・カラシャール」  法顕一行が冷たくされたこの場所の現在が気になったが、「地球の歩き方」には何も紹介されていない。パグラシュ(ボスデン)湖の北西、という言葉を頼りに地図を見ると、和静(ホーチン)という地名が見える。おそらくこの町だと思うが、現在は特筆する場所ではないみたいだ。

「亀茲国・庫車・クチャ」  符公孫が法顕に、絶対に立ち寄るな、と言ったであろうこの町の現在の人口は47万人である。先述した鳩摩羅什(くまらじゅう)の父親はインドの名門貴族だが、母親はこの亀茲国の王族の娘である。玄奘三蔵も天竺に向かう往路でこの地に立ち寄っている。法顕や玄奘の頃、このクチャはタクラマカン砂漠周辺のオアシス都市の中で群を抜く大きな都市で、当時の人口は10万人を超えていたという。

「和田・ホータン」  法顕が気に入り、玄奘が絹の伝来の物語を記したホータンの現在の人口は33万人とある。ここは現在でも「絹」と「玉」が大きな産業のようだ。

「楼欄・ローラン」  法顕が滞在した町の中で、このローランだけは今はあとかたもない。法顕が立ち寄った時が、この国の終末に近い頃であったようだ。その250年後にこのあたりを歩いた玄奘の時は、住む人もない廃墟と化していた。「幻のみやこ楼欄」という言葉の通り、消えてなくなったのである。

その理由は、ひとことで言えば、人間が生きるために必要な水がなくなったのである。このあたりのことは、ヘディンの「さまよえる湖」や井上靖の「楼欄」に詳しい。


1979年からシルクロードを取材したNHKの取材班は、当初、楼欄地域を取材することを禁止されていたという。「理由は何ですか?」との日本側の問いに、「それはみなさんが想像される通りです」と中国側の役人は答えたという。ところが、最終的には、撮影は中国側だけが行うという前提でこれは許可された。同行の中国の放送局CCTVのスタッフにとっても、思いがけない喜びであったらしい。「楼欄に入るのは、解放後、私たちが初めてです」と日本側の人に、何度も何度も繰り返したという。

軍事に関する地域、というのがその理由であった。1964年から25回行なわれた中国の核実験は、いずれもこの楼欄地域で行われた。私は今まで、周辺住民の健康への配慮で、この核実験はタクラマカン砂漠のど真ん中で行われたと思い込んでいた。この沙漠の東のはてのローラン遺跡の近くで行われたことを、最近知って驚いている。

理由は知らない。おそらく核実験の設備や資材の搬入の問題ではないかと思う。タクラマカン砂漠の砂は、ゴビ砂漠・サハラ砂漠などの砂とはまったく異なり、粒子が極めて細かい小麦粉のようなパウダー状であるらしい。少し風が吹くだけで、足跡がすぐに消えてなくなるという。ジープやトラックでの走行は難しい。この沙漠を35日間かけて横断した法顕の苦労が偲ばれる。


ロバに乗りバザールに向かうホータンの庶民 1970年代