2024年10月30日水曜日

みちのく一人旅(3)

 50年前の浪人生との再会(3)

自宅で美味しいリンゴとお茶をいただきながら、1時間ほど語り合う。50年間の出来事を1時間で語り尽くすのはむずかしい。「青年は弘前の人で医者の息子」と私は長い間ずっと思っていた。なぜ北の果てのむつ市で医者をやっているのか、何か問題をおこし父親に勘当されたのだろうか、と気にしていた。このことをお聞きした。

そうではなく、元々むつ市の生まれだとおっしゃる。両親が教育に理解があり、中学・高校の6年間を弘前市に遊学させてもらった。親は立派な職業だが医者ではない。50年前に弘前高校の卒業だと聞いた私は、本人が医学部を目指して勉強していたので、勝手に弘前の医者の息子だと思い込んでいたようだ。陸軍士官学校を卒業して硫黄島から生還された陸軍中尉の父上の若い頃のものがたりは、戦史に関心を持つ私にはとても興味深いものだった。

自宅からホテルに移動する前、「ちょっと私の研究所を覗いてください」と言われる。外科医の研究所というから、人間の骨でも飾ってあるのかな、と恐る恐るついていく。自宅の隣が駐車場で、その向こうに研究所がある。入口にモーターバイクが2・3台並んでいる。ドアを開けると中にもバイクが置いてあり、バラバラに解体してそれを再度組みなおしている様子だ。おびただしい数の工作道具が整然と置かれている。これはまさにモーターバイクの修理工場だ。「これが趣味なんですよ」と笑いながらおっしゃる。


このあと自宅近くのホテルにチェックインしてシャワーを浴びる。二人が6時半前に迎えに来てくださり、徒歩で夕食の場所に向かう。

田名部(たなぶ)の中心街を歩いているらしい。『街道をゆく・北のまほろば』の中に、司馬遼太郎が旧会津藩士の末裔の人たちと夕食を一緒するくだりがある。ふとそれを思い出し、「あの店はこの近くですか?」と二人に尋ねると、「そこの右側のお店です」と奥様が答えてくださる。ご主人だけでなく奥様も相当な読書家のようだ。

夕食の店に着いた。「東(あずま)寿し」という立派な寿司割烹だ。店の前を清流が流れていて小さな橋を渡って店に入る。この店の経営者とも二人は親しい仲のようだ。出てくる料理のすべてが極上の味だ。私はビールのあと純米酒を一合いただく。山崎医師はビールのジョッキ2杯を軽く空けた。さらに日本酒を注文して、奥様を交えて3人で酒盛りを続ける。実に愉快だ。

「堀さん、内島さん、中村さんはお元気ですか?」と突然山崎医師が問うたのには驚いた。3人とも私の成蹊の学友だが、この3人と隣の部屋の青年が会ったのは、多くても2-3回のはずだ。しかも50年前のことだ。立派な大学の医学部に合格したのだから、青年はもともと頭が良かったに違いない。でも、それだけが理由とも思えない。この3人の言動の何かが、当時20歳前後の青年の心に響いたのではあるまいか。ともあれ、50年前の青年が私の学友3人の名前を憶えていたことに、とても不思議な思いがした。

青年からもらった『一休狂雲集』をカバンに入れていた。「贈 田頭東行大兄 昭和五十二年七月二十九日 山崎總一郎」と書いてある。

「久しぶりです。一筆書いてください」とお願いした。山崎医師は口元にわずかに笑みを浮かべて私の万年筆を握った。

「犬も歩けば、猫も歩く。再会50年 山崎總一郎」

禅味のある、じつに味わい深い言葉である。

令和六年。今年も楽しいことがいくつもあった。その中でも、私にとっての楽しいことの筆頭がこの下北半島への旅であった。山崎ご夫妻に心から感謝している。




みちのく一人旅(2)

50年前の浪人生との再会(2)

訪問のひと月前、奥様から丁寧な案内をいただいた。「主人が田頭さんをお連れしたい場所があると言っています。当日は昼前に下北駅に着けるよう、始発の新幹線に乗ってください」とのことだ。令和6年10月12日、06時32分東京駅発のはやぶさ1号に乗り、八戸でローカル線に乗り換え、11時07分に下北駅に着いた。

ご夫婦で駅に迎えに来てくださっていた。お互い顔を見てすぐにわかった。50年前はひょうきんで快活な若者、との印象を持っていた。今回会ったら重厚な感じの紳士である。50年間の自己錬磨の賜物であろう。他者に対して気配りする親切な気質は昔と変わらない。

高級車のトランクに私の荷物を入れ、すぐに奥様の運転で北に向かった。しばらくすると海が見えた。快晴でかなり風がある津軽海峡はキラキラと輝いている。そのまま海岸線に沿って走り、正午過ぎに着いたのはまぐろで有名な大間(おおま)漁港だ。


「さつ丸」というまぐろ料理店に入った。大トロのまぐろ丼 の上に生うにが乗せてある。素晴らしく旨い。70代半ばのご主人が「さつ丸」の船長で鮪を獲っていて、奥様がこの店を切り盛りしている。奥様の名前が「さっちゃん」というらしい。この日は時化ているので漁が休みなのだろうか、ご主人も店におられる。若い女性が「山崎さんの奥様には大変お世話になっています」とおっしゃる。この女性はむつ市に住んでいて、通いでこの店を手伝っている。さつ丸夫婦の姪(めい)らしい。「サービスです」と、あぶったタコの足が皿に乗って出てきた。店の写真の右上にタコの足が干してあり、その下にコンロが見える。塩味だけのこのタコの足がとても旨い。

漁港のこのような雰囲気の海鮮レストランは、台湾の花蓮港(かれんこう)やマレーシアのフィッシャーマンズ・マーケットで何度か立ち寄ったことがある。店のつくりは素朴でシンプルだが、魚の味は超一流、というのが世界中で共通している。若い頃、東南アジアの港町をウロウロしていた頃を思い出す。

美味しい大トロのまぐろ丼で腹いっぱいになり、徒歩で「本州最北端の地」の石碑に向かう。津軽海峡の向こうに函館がはっきりと見える。3人で周辺を20分ほど散歩する。「さつ丸」と同じような海鮮レストランが10軒以上あちこちに見える。観光客が多い。アメリカ人らしき子供2人が海鮮料理店の前に立っていたので、片言の英語で話していたら、両親が勘定を済ませて店から出てきた。「三沢から来た」とおっしゃる。「グレイトUSエアーフォースですね!」と言ったらずいぶん喜んでくれる。お返しのつもりか、「お前さん英語がうまいね」とお世辞を言ってくれた。


大間漁港をあとにして、車は南に向かって山に入っていく。恐山(おそれざん)に向かっているらしい。山道はきれいに舗装されているのだが、道の中を5匹・10匹の猿の群れが我がもの顔で歩いているので、運転する奥様があわててブレーキを踏む。

恐山については多少の知識は持っていたが、自分がここに来る機会があるとは思ってもいなかった。比叡山・高野山と共に日本三大霊山の一つ。恐山菩提寺の創建は862年、慈覚大師円仁による。このようにいわれている。山形県の立石寺(りっしゃくじ)は860年、円仁によって創建といわれているが、円仁自身ではなくそのお弟子さんの手によるものらしい。これと同じく、この恐山も円仁の弟子か孫弟子によって開山されたと私は考えている。ともあれ、この恐山に連れてきてもらえたのは僥倖(ぎょうこう)であった。

恐山の菩提寺・賽の河原をあとにして、右にカルデラ湖を見ながら、車はどんどん山を登っていく。航空自衛隊のレーダー基地近くの展望台に連れて行かれた。あとで地図を見ると、この山は釜臥山らしい。ここから大湊湾が一望できる。

会津藩がこの地に入り、斗南(となみ)藩を名乗ったのは明治3年5月である。この地で藩政を担った3人の人物は偉かった。山川浩(ひろし)・広沢安任(やすとう)・長岡久茂(ひさしげ)である。長岡はこの大湊をひらいて、10年後には世界の船を寄港させようと奮闘した。明治35年、日本海軍はこの地に大湊水雷団を置いた。その後、軍港として発展した。津軽海峡の防備、すなわちロシアの日本侵入を防ぐ防人(さきもり)たちの軍事拠点である。山のてっぺんから大湊湾を眺めながら先人たちの労苦を想った。

この展望台を最後に、車はお二人の自宅に向かった。


さつ丸

本州最北端の碑

まぐろ一本釣の町 おおま




恐山

大湊湾 左がむつ市

2024年10月24日木曜日

みちのく一人旅

 50年前の浪人生との再会

私の小さな書斎の本箱に1冊の本がある。『一休狂雲集』という古典だ。引越しのたびに大事に持ち運んでいた。50年ほど前にこの本をくれたのは、同じアパートで隣の部屋に住む、医学部を目指して勉強していた青年である。

私は27歳、独身で三光汽船に勤務していた。吉祥寺の井の頭公園にほど近いアパートで、場所が便利なので成蹊の学友や三光汽船の仲間がよく泊まりに来ていた。私がこの竹貫アパートに住んだのは1年ほどだった。友人たちには、「となりは浪人生だから、大声を出してはいけないよ」と、私なりに浪人生に気を使っていた。

しばらくしてこの青年が、「田頭さん今夜一緒に夕食しませんか?」と誘ってくれた。土曜日か日曜日の夕方だった。快諾して、1時間ほどして彼の部屋に入ると2人分の料理が並んでいる。自分でつくったらしい。

食事が始まる前、青年は部屋の電灯を消し、古めかしいランプに火をともした。ランプに凝っていて、大正時代や昭和初期の骨とう品のランプをいくつか持っていると言う。変わった若者だなと思った。たしかにランプの灯のもとで食事をするのは心が落ち着いて雰囲気が良い。料理もとても美味しい。食事が終わったらランプを消して電灯をともした。

食後の一服と思い、私がタバコに火をつけようとしたら、「ダメダメ」と言う。タバコを吸うのがダメというのではないらしい。「食事が終わったらすぐに食器を洗わなくてはいけません。私も自分の分は洗います。田頭さんも自分の食器を洗ってください」 これが終わって、タバコを吸わせてもらった。

うるさいことを言うなあ、とこの時は思ったのだが、その後これが私の習慣となった。今でも家内の旅行中とか郷里広島県の実家で一人で食事をするときには、食事が終わったら1分も経たないうちに食器を洗う。お返しのつもりで、私もこの青年を自分の部屋に招いて何度か食事を一緒した。双方合わせて10回程度の会食だった気がする。このアパートを出たのは私が先だった。その時、青年が餞別だといってくれたのがこの本である。


以来50年、「彼は元気かな、立派なお医者さんになったのかなぁ」と時々この青年のことを思い浮かべていた。住所も電話番号もわからない。ただ、名前はわかっている。本に私と自分の名前を書いてくれていた。青森県の人だったという記憶もある。今年の8月、中野の自分の部屋で彼のことを想っていたら、ふと頭の中にひらめいた。もし青森県で医師として働いておられるなら、青森県医師会に聞いたらわかるのではないか。

ネットで調べたら電話番号が出ていたので、思い切って電話をかけてみた。「50年前のことなのですが、かくかくしかじか。この名前の医師が青森県にいらっしゃいますか?」と聞いたら、「いますよ」との返事だ。年配の男性の声だ。「私の名前と電話番号をお伝えします。先生にお伝えいただき、よろしかったら先生から私にお電話をいただきたいのですが、、」と言いかけたら、「電話番号を教えますよ。自分で電話をしてください」とおっしゃる。

このおおらかな返答に私は嬉しくなった。西欧文明の性悪説から出る発想なのだろうか、近頃は個人情報の保護だとか、メールに添付する書類にパスワードをかけるとか、人を疑うような話が多い。私のことを信用してくださったからであろうが、このおおらかな対応に、「これぞ日本人同士の会話だ。さすが、みちのくの人は人物が大きい!」と、私はこの方の対応に感激してしまった。

その病院は青森県の最北端、下北半島のむつ市にあるという。電話を入れると今度は若い女性の声だ。「50年前にお会いした田頭と申します」と伝えたら「少々お待ちください」と快活な声だ。しばらくして、本人が電話口に出た。「いやあ、田頭さん、お久しぶり!」 これが彼の第一声だった。これには感激した。久しぶりも久しぶり、50年ぶりなのだ。

私が青年のことを時おり思い浮かべていたように、彼もまた私のことを気にかけてくれていたようだ。私が三光汽船という海運会社で働いていたことは彼は知っている。同じアパートの時から10年後、三光汽船は「史上最大の倒産」ということで新聞紙上を賑わせた。その時、私はシンガポールにいた。「田頭さんはどうしているのだろう、ちゃんと食っているのかしら」と心配してくれていたようである。「下北まで遊びに行きたいよ」と言ったら、「来い、来い!」という話になって、少し涼しくなった10月頃に、この地を訪問する約束をした。





2024年10月14日月曜日

65歳の法顕、天竺に向かう(12)

 シルクロードのものがたり(41)

法顕は、病気はしなかったのだろうか?

65歳で長安を出発して陸路インドに向かい、77歳でセイロンから商船に便乗して海路中国に帰った。この事実からしても、法顕が頑強な人だったことがわかる。65歳で天竺に行こうと考えるだけでも、体力には自信があったのだろう。

しかし、法顕とて人間である。病気をしたり弱気になったりしたことはなかったのだろうか?インドに到着するまでの「法顕伝」や他の書物を読む限り、そのような事実は見えない。むしろ、自分の強い体力をベースに物事を判断したために、他者への思いやりに欠けていたのではないか、と反省する場面が見える。

パミール高原を超えて現在のアフガニスタン領に入った。ヒンズークシ山脈のふもとを通って、現在のカブールの東方・ジャラバードあたりからカイバル峠を越える。このあと現在のパキスタン領に入り峠をくだり、インダス川を渡る予定だ。このカイバル峠はインドに入るための重要拠点で、かつてはBC4世紀にアレキサンダー大王が、7世紀には玄奘もこの峠を越えている。

このあたりで慧景(えけい)という青年僧が、口から白い泡を吹いて亡くなった。高山病だったのかも知れない。じつは、ここに到る以前にも、3人の僧が中国に引き返している。このとき、「頑張れ、頑張れ。初志を貫き天竺まで行こう」と法顕は僧たちを励ましている。ところが、僧の一人は「あなたは常人ではありません。私たちは平凡な人間です」と答えている。これは法顕の強靭な体力を言ったものと思える。

「わかった。気を付けて帰りなさい」と法顕は答えている。このようにして、無事にインドに到着したのは、法顕と道整(どうせい)という青年僧の二人だけであった。


ところが、ある書物で、「法顕がインドで病気にかかって弱気になり、しょんぼりしていた」という話を発見した。法顕も人の子であったのだと、私はこの話に興味を持った。

ある書物とは、吉田兼好の「徒然草」である。第八十四段に次のようにある。

法顕三蔵の天竺に渡りて、故郷(ふるさと)の扇を見て悲しび、病(やまい)にふしては、漢(かん)の食(じき)を願ひたまひけることを聞きて、「さばかりの人、むげにこそ、心弱き気色(けしき)を、人の国にて見えたまひけり」と人の言ひしに、弘融僧都(こうゆうそうつ”)、「優(ゆう)になさけある三蔵なり」と言ひたりしこそ、法師の様にもあらず、心にくくおぼえしか。

私の成蹊の古い先輩である川瀬一馬先生は、次のように現代語訳されている。

法顕三蔵がインドへ渡って、故郷の扇(おうぎ)を見ては悲しみ、また病気にかかっては、故郷(中国)の食物を欲しがられたことを聞いて、「それほどのえらい人が、ばかに弱気なところを、他国でお見せになったものだ」とある人が言ったところ、弘融僧都(こうゆうそうつ”)が、「やさしくも、情味のある三蔵だな」と言ったのは、坊主のようでもなく、おくゆかしく感ぜられたことだ。


私も兼好法師と同じ思いだ。この話を聞いて、ますます法顕が好きになった。弘融僧都は仁和寺の僧であったと解説にある。兼好法師とこの人は仲良しだったような気がする。

吉田兼好は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての人だ。この頃、日本ではこの法顕について、読書階級の多くが知っていたようである。






2024年10月7日月曜日

65歳の法顕、天竺に向かう(11)

 シルクロードのものがたり(40)

法顕、ホータン(和田)を経由してパミール高原を超える

法顕はホータンが大いに気に入ったようだ。カラシャール(烏夷国)での冷たい仕打ち、タクラマカン砂漠を決死の覚悟で横断をしたあとである。これを思えば理解できる。

「この国は豊かで人民の生業は盛んである。人々はみな仏法を奉じ喜び楽しんでいる。僧侶はなんと数万人もいる。国王は自分たちを大乗学の寺に住まわせた。この寺では三千人の僧が、ケンツイ(日本の禅寺の魚板のようなもの)を合図に食事をする。一切が寂然(じゃくぜん)として器鉢(きはつ)の音一つしない。給仕人に食物をおかわりするときは、声を出して呼んではいけない。ただ手でさし招くだけである」

ホータンの人々の親切に感謝し、彼らに対する尊敬の気持ちが感じられる。このホータンに3ヶ月滞在したあと、法顕は何人かの僧と一緒にタクラマカン砂漠の南を西に歩き、パミール高原を超えることになる。


ここで少し趣(おもむき)を変えて、法顕が長安を出発したあと滞在した町々の現在の様子を眺めてみたい。滞在はしないが、名前の出たいくつかの町も簡単に紹介したい。これらは、2021-2022年版の「地球の歩き方」を参考にした。

「蘭州・らんしゅう」  長安から西北600キロの都市で、法顕はここで3ヶ月滞在している。物資や人夫の手配をしたのだと思う。この町の現在の人口は322万人とあり、甘粛省の省都でもあり、青海省に発した黄河が初めて通過する大都市である。李広将軍・その孫の李陵の故郷の天水は、長安とこの蘭州の中間点にある。

「張掖・ちょうえき」 北涼王・段業の庇護のもと、ここで1年間滞在した。この町は元(げん)の時代にマルコ・ポーロも1年近く滞在している。現在の人口は132万人。中国の人口は漢の時代に約6000万人で、現在はその20倍といわれる。これを参考に推定すると、法顕がこの張掖に滞在したころの人口は10万人程度だったと思える。

「酒泉・しゅせん」  霍去病(かくきょへい)が武帝からもらった十樽の酒を泉に入れて、兵士全員が歓喜して飲んだこの場所は、現在は人口101万人の都市である。

「敦煌」  李広将軍の16代孫の李暠に1ヶ月世話になったこの町は、現在でも多くの観光客が訪れる。人口は14万人とある。

「高昌国・トルファン」  法顕自身はここに立ち寄っていない。烏夷国(カラシャール)での冷たい待遇に憤慨したとき「智厳・ちげん・等三人の僧は引き返して高昌国に移った」と記録するあの高昌国である。この高昌国は玄奘三蔵が往路で、この国の王様に異常なくらいの親切を受け、天竺に行かないで国師としてこの国に残ってほしい、と懇願された場所でもある。現在でも観光地として名高い。私の友人・先輩の二人もここを訪問したことを話してくれ、羨ましく思った。現在の人口は63万人とある。

「烏夷国・カラシャール」  法顕一行が冷たくされたこの場所の現在が気になったが、「地球の歩き方」には何も紹介されていない。パグラシュ(ボスデン)湖の北西、という言葉を頼りに地図を見ると、和静(ホーチン)という地名が見える。おそらくこの町だと思うが、現在は特筆する場所ではないみたいだ。

「亀茲国・庫車・クチャ」  符公孫が法顕に、絶対に立ち寄るな、と言ったであろうこの町の現在の人口は47万人である。先述した鳩摩羅什(くまらじゅう)の父親はインドの名門貴族だが、母親はこの亀茲国の王族の娘である。玄奘三蔵も天竺に向かう往路でこの地に立ち寄っている。法顕や玄奘の頃、このクチャはタクラマカン砂漠周辺のオアシス都市の中で群を抜く大きな都市で、当時の人口は10万人を超えていたという。

「和田・ホータン」  法顕が気に入り、玄奘が絹の伝来の物語を記したホータンの現在の人口は33万人とある。ここは現在でも「絹」と「玉」が大きな産業のようだ。

「楼欄・ローラン」  法顕が滞在した町の中で、このローランだけは今はあとかたもない。法顕が立ち寄った時が、この国の終末に近い頃であったようだ。その250年後にこのあたりを歩いた玄奘の時は、住む人もない廃墟と化していた。「幻のみやこ楼欄」という言葉の通り、消えてなくなったのである。

その理由は、ひとことで言えば、人間が生きるために必要な水がなくなったのである。このあたりのことは、ヘディンの「さまよえる湖」や井上靖の「楼欄」に詳しい。


1979年からシルクロードを取材したNHKの取材班は、当初、楼欄地域を取材することを禁止されていたという。「理由は何ですか?」との日本側の問いに、「それはみなさんが想像される通りです」と中国側の役人は答えたという。ところが、最終的には、撮影は中国側だけが行うという前提でこれは許可された。同行の中国の放送局CCTVのスタッフにとっても、思いがけない喜びであったらしい。「楼欄に入るのは、解放後、私たちが初めてです」と日本側の人に、何度も何度も繰り返したという。

軍事に関する地域、というのがその理由であった。1964年から25回行なわれた中国の核実験は、いずれもこの楼欄地域で行われた。私は今まで、周辺住民の健康への配慮で、この核実験はタクラマカン砂漠のど真ん中で行われたと思い込んでいた。この沙漠の東のはてのローラン遺跡の近くで行われたことを、最近知って驚いている。

理由は知らない。おそらく核実験の設備や資材の搬入の問題ではないかと思う。タクラマカン砂漠の砂は、ゴビ砂漠・サハラ砂漠などの砂とはまったく異なり、粒子が極めて細かい小麦粉のようなパウダー状であるらしい。少し風が吹くだけで、足跡がすぐに消えてなくなるという。ジープやトラックでの走行は難しい。この沙漠を35日間かけて横断した法顕の苦労が偲ばれる。


ロバに乗りバザールに向かうホータンの庶民 1970年代