2019年7月30日火曜日

酒虫(しゅちゅう)

世界の古典の中でも、とびきり短い短編小説をご紹介したい。
このブログで全文をご披露できる。

蒲松齢(ほしょうれい)の「聊斎志異」(りょうさいしい)の中にある「酒虫」という小説だ。

蒲松齢を紹介するのに格好の材料がある。福田定一という20代の新聞記者が書いた「黒色の牡丹」の一節である。プロの作家ではない。いわば修行中の作家の卵の作品だが、後の司馬遼太郎
だから、その筆力には迫力がある。ここでは、この福田さんの筆を借りる。


西紀1700年前後といえば、中国の清、康熙帝(こうきてい)のころである。山東省淄川(しせん)の人蒲松齢は、八十を過ぎてなお、神仙怪異を好むことをやめなかった。

鄙伝(ひでん)によれば、この人、毎日、大きな甕(かめ)をかついで往来に据え、旅人を見れば呼びとめて茶を馳走したという。さらにその横にタバコが用意してあって、喫茶がすむとそれを勧める。

無料である。しいていえば、談話取材料がその茶とタバコとみるべきであろうか。旅人を呼びとめては、咄(はなし)をせがむのである。それも通常のものではなく、何か諸国を歩くうち、妖怪奇異を見聞しなかったかということなのだ。

「聊斎志異」十六巻、四百三十一節の怪異譚はかくて出来あがった。こんにち、世界最大の奇書といわれ、中国人の卓越した想像力と、ふしぎなリリシズムを代表する説話文学として不朽の賞讃をうけている。


「酒虫」はこの四百三十一節の中でも、とびきり短い作品だ。本文は次のとおりである。



酒虫(しゅちゅう)     立間祥介 訳

長山県(山東省鄒平・すうへい)の劉某(りゅうなにがし)はまるまると肥っていた。

酒好きで、一度飲み出すと一甕(ひとかめ)空けてしまうのが常だった。城外に百畝(うね)あまりの田畑を持っていて、その半ばに酒を醸(かも)すための黍(きび)を植えていた。
素封家だったので、酒代くらい高がしれたものだったが、ひとりの異人の僧がその顔を見て言った。

「なにかおかしなことがおありでしょう」
「いや」
「いくらお飲みになっても、酔わないとかいうことはありませんか」
「そういえばそうだ」
「それは酒虫のせいです」

驚いた劉が、治療ができるものだろうかと問うと、「簡単になおせます」、
「薬は」と聞くと、「何もいりません」と言って、劉を日向に俯(うつぶ)せにさせ、手足を縛りつけて、顔の先三尺ばかりのところにうまい酒を入れた椀を置いた。
劉はまもなく喉がからからになってきた。渇きは鼻を衝(つ)く酒の香りによってますます激しくなり、どうにも堪えられなくなった。

そのとき、喉の奥が急にむずむずしたかと思うと、わっと何かを吐出し、それがもろに酒のなかに落ちた。

縄を解かれ、つくつ゛く見てみれば、長さ三寸ばかりの赤い虫が魚のように酒の中を蠢(うごめ)いていた。目も口も揃っている。
劉が驚いて礼を言い、礼金を差し出すと、僧は受けようとせず、ただその虫を貰いたいという。

「こんなものが何かお役に立つのですか」と聞くと、
「これは酒の精で、これを水を入れた甕に入れてかき回せば、うまい酒になるのです」という。

試させてみると、その通りだった。

以来、劉は酒を敵(かたき)のように憎むようになった。そのうち次第に痩せ細り、日毎に貧しくなって、三度の飯にも事欠くようになった。


以上がこの作品の全文である。


私がブログでこれをご紹介するのには訳がある。
というのは、何回これを読んでも、筆者の蒲松齢が何を言いたいのか、さっぱり分らないのだ。

怪異譚だから、不思議で気味悪ければ、それだけで充分価値があるのかも知れない。しかし、他の節を読むと、なるほど筆者はこういうことが言いたいのだな、となんとなく見当がつく。
この「酒虫」だけは、それがまったく分らない。

これを読まれた方から、「こういうことを言いたいのだと思うよ」とのご意見があれば、ぜひとも教えていただきたいのだ。


追記:
この「酒虫」の画像探しに苦労した。
これから察すると、みみずに目と口を付けた魚らしきものを想像する。ドジョウの子供を赤っぽくすればこれに近いか、とも思う。
しかし、ぴったりの画像がない。何もないのも淋しい。よって家のどんぶりに高級な純米酒(天狗舞)を2合ほど入れて写真に写した。
「酒虫」の姿は、読者の方に想像して頂ければと思う。




























2019年7月25日木曜日

日本史の人気者・6位―9位

「日本史の人気者・番付表」を読んでくださった方々から、たくさんの声援を頂いた。
多くは、「なにをモタモタしているの。早く6位ー9位を発表したら」との声だった。

「俺は江川英龍を尊敬している。偉い男だよ。番付の中に入れてくれないか」との意見もあった。
確かにこの人は偉い。お台場や伊豆・韮山に反射炉を建設し、佐久間象山・橋本佐内・桂小五郎の師匠でもある。ただ、日本史の人気者・10傑には無理があるような気がする。

意外だったのは、最澄と北条泰時の名前が、何人もの方々から挙がったことである。
「むむ、おぬし、できるな!」と思った。
この2人の名前を挙げた人は、相当深く日本史を勉強された方だと思う。今回の人気者10傑には当たらないが、日本史の偉人10傑には入れるべき人物と考える。

先日、畏友のAさんとランチを一緒して、これらを含めてお話を伺った。
この人は、歴史検定1級に5回合格して、「歴研日本史博士」の称号を持っている。
日本史の達人で、並みの大学教授などこの人の前に出ると「青菜に塩」だ。

そのAさんがおっしゃる。

「この設問自体に無理がありますね。時代時代において人物の評価は変わります。たとえば日本武尊を例にとると、明治以降の日本人から見たら突出した英雄でしょう。ただ、当時の九州や東国の人々からしたら、とんでもない侵略者です。嫌な奴だというイメージは、それらの地域では数百年以上は続いたのではないでしょうか」

玄人ならではのコメントである。なるほどと思った。

「人気者6位―9位」の表をお見せしたら、「まあ、こんなところですかね」と肯かれた。あまり難しいことを言うと、私がいじけて、やる気をなくすと思われたのかも知れない。

日本史の流れを変えたという視点からして、私は源頼朝という人をすこぶる尊敬している。
弟の義経の、武人としての才能と功績は高く評価するものの、平家打倒のあと鎌倉への帰路、兄の了解もなく後白河法皇から官位を受け取ったのはいただけない。兄・頼朝の怒りはよく理解できる。

それでも、人気者ということになると、頼朝より義経が格段に上、ということは認めざるを得ない。

北条時宗好きの私としては、なんとかして時宗をこの表に入れたかった。しかしそうすると、他の誰かを落とさなくてはいけない。涙を呑んで、時宗はリストに入れなかった。

さて、Aさんのお力を借りながら、私が選んだ人気者の6位―9位は次の通りである。

6位  源義経
7位  坂上田村麻呂
8位  和気清麻呂
9位  楠木正成





2019年7月22日月曜日

吉良仁吉と清水次郎長

名古屋に学友3人がいる。
「一献やらないか」という話になり、同じ中野区に住むU君と出かけた。

U君は神社巡りの友人でもある。この数年、東日本の神社100社ほどを一緒にお詣りした。
「酒を飲むのは夜だろう。朝8時頃の新幹線に乗って伊勢一宮の椿大神社にお詣りせんか」と言う。良い考えだ、と話はすぐにまとまった。

四日市駅からバスで1時間ほどで神社に着く。
猿田彦命をお祀りした神社だ。天照大神の孫のニニギノミコトをお導きした神様だからずいぶん古い。境内を歩いているとなんとなく霊気を感じる。

お詣りのあと昼食をしていたら、「帰りは別のルートが良い。そのほうが早い」と言う。
「万巻の書を読み万里の道を旅した人」だから、こういう時にはU君の言に従うのが無難だ。

加佐登駅に着く5分ほど前、「こうじんやまぐち!」とバスがアナウンスする。
「あの荒神山だよ」とU君が言う。
「あの荒神山か?」
「そうだ。あの荒神山だよ」
キョロキョロと左右を見るが、山らしい山は見えない。右側にこんもりした林が見えるだけだ。

荒神山の喧嘩の話は聞いているが、吉良仁吉は三洲吉良の出身だ。荒神山は愛知県にあるものと思い込んでいた。
吉良仁吉は幕末の侠客と聞いている。清水次郎長や大政・小政とどちらが偉いんだろう、と長い間気になっていた。小旅行から帰り、2冊ほど本を買って調べてみた。


我々が映画や小説や浪曲で知っている「東海遊侠伝」や「血煙荒神山」は、事実とはずいぶん違っていることが判った。
明治の文筆家・山本五郎(一時期、清水次郎長の養子)、大正の講釈師・神田伯山、昭和の作家・長谷川伸・尾崎士郎、そして浪曲師・広沢虎造らの手によって、我々が知る吉良仁吉・清水次郎長・大政・小政のイメージが作られている。

地元の実業家・味岡源吉氏の「実録荒神山」という本がある。同氏が昭和30年代から、多くの古老たちの話を取材したのがベースになっていて興味深い。

事実は次のようであったらしい。


慶応2年4月、三重県の高神山(こうじんさん)観音寺というお寺の境内で、神戸(かんべ)藩の侠客・長吉と桑名藩の侠客・穴太徳との間に、賭場を巡っての喧嘩がおきた。
人数的に不利だった長吉は、西三河の大親分・寺津間之助に加勢を求める。
この親分のもとで若いころ修行をしたのが、清水次郎長・神戸長吉・吉良仁吉である。仁吉の年齢は若いが、この3人は兄弟分にあたる。

荒神山の喧嘩の時の各人の年齢は、
寺津間之助55歳・神戸長吉52歳・清水次郎長47歳・大政35歳、吉良仁吉27歳である。寺津と次郎長の2人はこの喧嘩には参加していない。これらから判断すると、次郎長は仁吉より格上であるが、大政は仁吉より格下、というのが侠客の世界での常識である。

長吉は弟分にあたる仁吉にも加勢を頼み、義理と人情の男・仁吉は、よしきたと、子分18人を連れて荒神山に乗り込む。ちょうどこの時、大政と子分5人は次郎長の勘気に触れて、一時的に寺津一家に身を寄せていて、それ出陣、となった。

この時の喧嘩は意外にあっけない。

穴太徳側は猟師10人を雇っていた。長吉・仁吉・大政の3人が大男だったので、「大男を狙え」と猟師たちに命じていた。そして仁吉はこの鉄砲玉にあたって死ぬ。この喧嘩での死者は、長吉側が仁吉とあと2人。穴太徳側の死者は1人である。
勝ったのは長吉側ではあるが、この寺を囲んでいた神戸藩の役人に追われて、両陣営ともすぐに逃げ出している。刀を使っての血煙が舞う派手な斬り合いはなく、あっという間に終わった喧嘩のようである。

映画や浪曲で有名になったからであろう。昭和6年、三重県は荒神山喧嘩の調査班を作り、地元の古老たちから聞き取り調査を行っている。朝日新聞の記者が1人加わり、これを朝日新聞の伊勢版に連載している。

味岡氏は著書の中で、この中の「おだい婆さんの証言」を紹介している。この時87歳の女性で、この人の旦那・久居の才次郎は神戸長吉の子分で、この喧嘩に参加して生き残り、後日51歳で亡くなっている。

このお婆さんは次のように証言している。

「神戸の長吉は立派な親分さんだったが、敵側の穴太徳も立派な親分だった。吉良仁吉は喧嘩のはじめに鉄砲玉にあたって死んだ。大政たちは懐に手を入れて眺めているだけで、清水の連中はものの役には立たなかった。この喧嘩で大活躍したのは、わしの旦那の久居の才次郎さ」

旦那から聞いた話であろう。

旦那自慢は割り引いて考えるにしても、敵側の親分を評価していることからして、このお婆さんは嘘は言ってない気がする。大政たち清水の6人衆がぼんやりと眺めていたというのは、どうも本当のような気がする。

吉良仁吉という人は六尺近い大男で、顔にアバタがあったという。幕末に流行した天然痘に罹っていたのだと思う。50-60人の子分を持ち義理人情に厚い魅力ある人物だった、というのは本当のようだ。

次郎長や大政の明治期の写真は残っているが、仁吉の写真は残っていない。大政という人は結構ハンサムである。88歳の長寿を保った仁吉の3歳上の姉「いち」の80歳前後の写真が残っている。勝ち気で、キリリとした顔つきで、若いころはさぞかし美人だったろうと思われる。

ちなみに幕末の志士で、天保10年生まれの吉良仁吉と同い年の人は、高杉晋作である。


小学校5年生の時だった。
村田英雄の「人生劇場」の唱が気に入って、悪童仲間たちに教えて、みんなでよく歌っていた。
今回の小旅行と2冊の読書を終えて、いい年齢になった自分の体の中に、少年のころの熱い血がたぎるのを感じる。


時世時節は 変わろとままよ
吉良の仁吉は 男じゃないか
おれも生きたや 仁吉のように
義理と人情の この世界

















2019年7月16日火曜日

棚田での農作業

月1回、数日間の日程で郷里の広島県に帰り、子供の頃の友人2人と農作業をするようになって20年になる。

我が家の200坪ほどの畑には、大根・白菜・キャベツ・玉ねぎ・じゃがいも・茄子・トマト・胡瓜・西瓜などを植える。筍が生える竹林の手入れもする。

今時分は、仲間の棚田に植えた里芋の土寄せが大事な農作業である。400株ほど植えてあるから、うまく生育すると1トン前後の収穫になる。市場には出荷しない。3人で自慢しながらあちこちに配り歩く。

梅雨の合間の好天の日を選んで、今年も3人で里芋の手入れをした。
まず草むしりをしながら、青虫が葉っぱを食っているのを見つけると手と足でつぶす。その後、肥料を株と株の間に一掴み置いて土寄せをする。この土寄せがかなりの重労働だ。

畑仕事をやらない小学校時代の友人たちは、農作業に熱を入れている我々3人のことを奇人変人扱いしている。無理をして熱中症になると彼らに笑われるので面白くない。よってこまめに休息を取る。うぐいすのさえずりを聞きながら、持参した冷たいお茶を3人で飲む。

仲間の1人は畳屋のやっさんで、もう1人は電器屋のテー坊という。2人は私のことをのぶちゃんと呼ぶ。

やっさんは小学校1年生からの友人だ。古い日本語に、竹馬の友という良い言葉がある。

テー坊はさらに古い。同じ浦崎村の同じ高尾地区の生まれなので、保育所から一緒だ。
親が皆仕事をしていたので、2年・3年保育だから、3歳・4歳からの仲良しである。竹馬にも乗れない、まだ「おむつ」がとれたばかりの幼児からの友人である。

「おむつ外れの友」というのもかっこ悪い。このように古い時代からの友人のことを表現する良い日本語はないのであろうか。


2019年7月8日月曜日

日本史の人気者・番付表

「ヘッドハンターって土曜・日曜も人と会うから忙しいのでしょ?」
と同情のまなこで聞かれることがある。
週末に候補者にお会いすることもあるし、農作業やヨットで週末をつぶすこともあるが、暇な週末も結構多い。

この前の週末は雨模様で、近くの本屋と喫茶店に行く以外は、終日中野の自宅でブラブラしていた。このような時は、暇にまかせて空想をめぐらす。これが案外楽しい。

大化改新でも大宝律令の制定でも、どちらでもかまわない。
日本が文明国家としてスタートした時点から、その後1300年の間に生まれた日本人全員に生き返っていただき、墓場まで取材に行く。そして、「あなたが一番好きな日本人は誰ですか?」とインタビューする。そんな空想をしてみた。

このようなアンケートだと、古い時代に生まれた人ほど得である。西郷隆盛は明治以降の人には絶大の人気があるが、それ以前の1000年間の人は知らないから分が悪い。

「尊敬する人物」というと、なんだか堅苦しい。
結果的には、日本史に貢献した一流の人物ということになるのだが、あくまでも「人気者の番付表」だから、「あなたの一番好きな人」という問い方に徹する。「お父さんお母さんという回答は駄目ですよ」と念を押す。


ダントツ日本一の人はすぐに頭に浮かんだ。だれがどう言おうと、この人の1位は絶対に揺るがないと思う。順位は別として2位から5位までもスラスラと名前が出た。

問題は6位から10位である。20名近い人物の名前を書いては消し、消しては書いた。1000年のハンディはあるものの、やはり西郷隆盛は入れなくてはいけないと思い10位に入れた。
50番台には、美空ひばり・石原裕次郎・高倉健が入るかもしれないと思った。

6位から9位は案外むずかしい。
うんうん唸っているうちに、日曜日の夜9時になった。
「お父さん早くご飯を食べてくださいよ。あとかたつ゛けに困ります」と家内にせっつかれて、あわてて風呂に入り、ビールを1缶飲んで夕食を済ませて、10時半に寝た。

よって、10名のうち6名だけ名前が出たので、ここで披露させていただく。1位は誰からも文句は出ないと思うが、2位以下は人それぞれの好みがあるので、10人10色の名前が出るかと思う。

学のある方から、「聖徳太子と伝教大師・最澄が入っておらぬではないか!」とお叱りを受けるかも知れない。この二人は偉い人であり、「尊敬する人」だと票が入るものの「好きな人」との問いかけには票が少ないように思う。不思議なことに弘法大師・空海は、そのいずれに対しても多くの票が入る気がする。

私の考えた未完成の番付表は次の通りである。

1位 :日本武尊
2位 :西行法師
3位 :弘法大師・空海
4位 :行基
5位 :豊臣秀吉
6位 :
7位 :
8位 :
9位 :
10位 :西郷隆盛

ダントツ日本一のヒーローは日本武尊であり、これは絶対に揺るがない気がする。
6位から9位は、暇な日をみつけて、また改めて考えてみたい。「この人はぜひ入れるべきである」
とのご意見があれば、ぜひとも聞かせていただきたい。