2019年7月22日月曜日

吉良仁吉と清水次郎長

名古屋に学友3人がいる。
「一献やらないか」という話になり、同じ中野区に住むU君と出かけた。

U君は神社巡りの友人でもある。この数年、東日本の神社100社ほどを一緒にお詣りした。
「酒を飲むのは夜だろう。朝8時頃の新幹線に乗って伊勢一宮の椿大神社にお詣りせんか」と言う。良い考えだ、と話はすぐにまとまった。

四日市駅からバスで1時間ほどで神社に着く。
猿田彦命をお祀りした神社だ。天照大神の孫のニニギノミコトをお導きした神様だからずいぶん古い。境内を歩いているとなんとなく霊気を感じる。

お詣りのあと昼食をしていたら、「帰りは別のルートが良い。そのほうが早い」と言う。
「万巻の書を読み万里の道を旅した人」だから、こういう時にはU君の言に従うのが無難だ。

加佐登駅に着く5分ほど前、「こうじんやまぐち!」とバスがアナウンスする。
「あの荒神山だよ」とU君が言う。
「あの荒神山か?」
「そうだ。あの荒神山だよ」
キョロキョロと左右を見るが、山らしい山は見えない。右側にこんもりした林が見えるだけだ。

荒神山の喧嘩の話は聞いているが、吉良仁吉は三洲吉良の出身だ。荒神山は愛知県にあるものと思い込んでいた。
吉良仁吉は幕末の侠客と聞いている。清水次郎長や大政・小政とどちらが偉いんだろう、と長い間気になっていた。小旅行から帰り、2冊ほど本を買って調べてみた。


我々が映画や小説や浪曲で知っている「東海遊侠伝」や「血煙荒神山」は、事実とはずいぶん違っていることが判った。
明治の文筆家・山本五郎(一時期、清水次郎長の養子)、大正の講釈師・神田伯山、昭和の作家・長谷川伸・尾崎士郎、そして浪曲師・広沢虎造らの手によって、我々が知る吉良仁吉・清水次郎長・大政・小政のイメージが作られている。

地元の実業家・味岡源吉氏の「実録荒神山」という本がある。同氏が昭和30年代から、多くの古老たちの話を取材したのがベースになっていて興味深い。

事実は次のようであったらしい。


慶応2年4月、三重県の高神山(こうじんさん)観音寺というお寺の境内で、神戸(かんべ)藩の侠客・長吉と桑名藩の侠客・穴太徳との間に、賭場を巡っての喧嘩がおきた。
人数的に不利だった長吉は、西三河の大親分・寺津間之助に加勢を求める。
この親分のもとで若いころ修行をしたのが、清水次郎長・神戸長吉・吉良仁吉である。仁吉の年齢は若いが、この3人は兄弟分にあたる。

荒神山の喧嘩の時の各人の年齢は、
寺津間之助55歳・神戸長吉52歳・清水次郎長47歳・大政35歳、吉良仁吉27歳である。寺津と次郎長の2人はこの喧嘩には参加していない。これらから判断すると、次郎長は仁吉より格上であるが、大政は仁吉より格下、というのが侠客の世界での常識である。

長吉は弟分にあたる仁吉にも加勢を頼み、義理と人情の男・仁吉は、よしきたと、子分18人を連れて荒神山に乗り込む。ちょうどこの時、大政と子分5人は次郎長の勘気に触れて、一時的に寺津一家に身を寄せていて、それ出陣、となった。

この時の喧嘩は意外にあっけない。

穴太徳側は猟師10人を雇っていた。長吉・仁吉・大政の3人が大男だったので、「大男を狙え」と猟師たちに命じていた。そして仁吉はこの鉄砲玉にあたって死ぬ。この喧嘩での死者は、長吉側が仁吉とあと2人。穴太徳側の死者は1人である。
勝ったのは長吉側ではあるが、この寺を囲んでいた神戸藩の役人に追われて、両陣営ともすぐに逃げ出している。刀を使っての血煙が舞う派手な斬り合いはなく、あっという間に終わった喧嘩のようである。

映画や浪曲で有名になったからであろう。昭和6年、三重県は荒神山喧嘩の調査班を作り、地元の古老たちから聞き取り調査を行っている。朝日新聞の記者が1人加わり、これを朝日新聞の伊勢版に連載している。

味岡氏は著書の中で、この中の「おだい婆さんの証言」を紹介している。この時87歳の女性で、この人の旦那・久居の才次郎は神戸長吉の子分で、この喧嘩に参加して生き残り、後日51歳で亡くなっている。

このお婆さんは次のように証言している。

「神戸の長吉は立派な親分さんだったが、敵側の穴太徳も立派な親分だった。吉良仁吉は喧嘩のはじめに鉄砲玉にあたって死んだ。大政たちは懐に手を入れて眺めているだけで、清水の連中はものの役には立たなかった。この喧嘩で大活躍したのは、わしの旦那の久居の才次郎さ」

旦那から聞いた話であろう。

旦那自慢は割り引いて考えるにしても、敵側の親分を評価していることからして、このお婆さんは嘘は言ってない気がする。大政たち清水の6人衆がぼんやりと眺めていたというのは、どうも本当のような気がする。

吉良仁吉という人は六尺近い大男で、顔にアバタがあったという。幕末に流行した天然痘に罹っていたのだと思う。50-60人の子分を持ち義理人情に厚い魅力ある人物だった、というのは本当のようだ。

次郎長や大政の明治期の写真は残っているが、仁吉の写真は残っていない。大政という人は結構ハンサムである。88歳の長寿を保った仁吉の3歳上の姉「いち」の80歳前後の写真が残っている。勝ち気で、キリリとした顔つきで、若いころはさぞかし美人だったろうと思われる。

ちなみに幕末の志士で、天保10年生まれの吉良仁吉と同い年の人は、高杉晋作である。


小学校5年生の時だった。
村田英雄の「人生劇場」の唱が気に入って、悪童仲間たちに教えて、みんなでよく歌っていた。
今回の小旅行と2冊の読書を終えて、いい年齢になった自分の体の中に、少年のころの熱い血がたぎるのを感じる。


時世時節は 変わろとままよ
吉良の仁吉は 男じゃないか
おれも生きたや 仁吉のように
義理と人情の この世界

















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