彼より4歳・3歳年長の金子堅太郎と高橋是清の2人の人生の名場面が、日露戦争勝利であったことに比べると10年早い。
その証拠に、伊東は日清戦争勝利の直後、明治28年8月20日に「男爵」を授けられている。ちなみに、金子堅太郎は明治33年、高橋是清は明治40年に「男爵」になっている。
明治5年からフランス・ドイツで法律を学んだ井上毅や、ハーバード・ロースクールで学位を取った金子堅太郎に一歩もひけを取らず、伊東は3羽ガラスの1人として、見事に大日本帝国憲法を作りあげた。これが可能であったのは、16歳の時からの実質的な弁護士活動、その後のお雇い外国人法律家2人から学びながら工部省の法律実務を取り仕切ったことにある。法律家としての実力は、井上や金子より伊東のほうが上だったかも知れない。
日清戦争での功績は、情報官僚として日本や世界のメディアを操作して、世界の世論を日本有利に誘導したことにある。ロイター通信を含めて外国の通信社にも、日本有利の記事を書かせるべく
裏金を渡している。伊藤博文の了解を得た上でのことである。
人生の前半において2つの大仕事をやり遂げた伊東は、大正から昭和になると、「いじめっ子」ぶりを発揮する。「弱い者いじめ」ではない。「強い者いじめ」である。長寿を保った晩年の山形有朋のイメージにも似ている。
大正の後半から昭和の初めにかけて、伊東巳代治は「内閣の鬼門」と恐れられ、大物政党政治家たちから忌み嫌われる。多くの内閣総理大臣が伊東に虐められ、そして泣かされた。
若槻礼次郎がその晩年に書き、昭和25年に出版された「明治・大正・昭和政界秘史」という本がある。伊東巳代治はすでに亡くなっていたが、実名では書きにくかったのか、「枢密院の老顧問官」という表現で伊東のことが書かれている。
昭和2年の話である。
「果たせるかな、枢密院はこの事は憲法七十条に当たらんと言い出した」
「枢密院の老顧問官は、この案を討議する時、政府の外交が軟弱であるといって攻撃した。これは問題外であるから、私も外務大臣の幣原喜重郎も、黙って答えなかった」
「枢密院は頑として応じない。枢密院議長の倉富勇三郎君は私に非常に好意を持ってくれていたが、彼は枢密院の中心勢力ではない」
「その老顧問官は、ますます調子に乗って、陛下の御前をも顧みず、町内で知らぬは亭主ばかりなり、という俗悪な川柳まで引いて、外交攻撃をした。まるで枢密院を自分一人で背負っているような勢いであった。私はもう癪にさわって、一つ相手になって喧嘩をしたかったが、場所が場所であり(注・宮中)、立場が立場だから、じっと腹の虫を抑えて黙っていた。政府も閣僚全部出席したが、わずか十人ばかり、枢密院のほうは二十何人で、とうとう政府案は否決され、内閣は総辞職した」
よほどくやしかったのであろう。若槻はこのように伊東のことを悪口言っている。若槻だけではない。田中義一、浜口雄幸などの総理大臣も伊東に虐められている。
ただ、伊東には伊東の言い分があった。
議会制民主主義を想定した明治憲法を制定するにあたり、当時の自由民権運動の動きから察して、将来、過度に大衆迎合するデモクラシー政治が行われる可能性があった。同時に左翼思想を抑える必要もある。この制御機能を持ったのが枢密院である。
枢密院は天皇の諮問機関で、「憲法の番人」とも呼ばれ、日本だけでなく、国王・皇帝を戴く欧州の国々にも存在した。伊東の権力の源泉は、この枢密院のボスであったことにある。枢密院のボスには時の内閣を総辞職に追い込むだけの力があった。
「自分が頑張らなければ皇室に災いが及ぶ恐れがある」との使命感が伊東には常にあった。
今一つは、昭和2年のこの時点では、伊東のほうが若槻よりも位階(いかい)がはるかに上で、その分「若槻より伊東のほうが格段に偉かった」ともいえる。
この時、伊東巳代治70歳、伯爵・正二位である。かたや若槻礼次郎60歳、爵位無し・正五位である。(若槻は昭和6年に男爵、昭和17年に従二位)
爵位は血統による世襲、または国家功労者への栄誉称号だから、伯爵だから俺は偉い、とはかならずしもいえない。本人も世間もそのように認識している。
これに比べ、位階とは国家の制度に基つ゛く個人の序列であり、天皇との距離を示す。
正二位の人が正五位の人に対して、「俺のほうが偉い」と思うのは、当時としては自然な感覚である。ちなみに伊東は死去の際、従一位を追叙されている。
戦後の総理大臣で従一位は、幣原喜重郎・吉田茂・佐藤栄作の3人で、鳩山一郎・岸信介・池田勇人などはその下の正二位である。
ただし、その後の日本史を結果論から判断すると、この時の政策論争(台湾銀行の救済)の正否は若槻に軍配があがる気がする。
このような「いじめっ子」ぶりの度が過ぎて、晩年の伊東は時の総理大臣から煙たがられていたが、死の前年(76歳の時)、後世に光るみごとな政治判断をしている。
「国際連盟脱退反対運動」である。
松岡洋右の国際連盟脱退演説は、当時、軍部を筆頭に、朝野、左右を問わず、国を挙げて熱狂的に支持された。
伊東巳代治ただ1人、これに対して絶対反対の論陣を張る。
第一に、このことにより日本は国際的に孤立して軍事的危機におちいる恐れがある。第二は、もし脱退するのであれば、国際連盟からの委任により日本が統治しているサイパン・テニアン・トラックを含む南洋群島を引き続き日本が統治する法的根拠がない。というのが伊東の言い分であり、まさに正論である。
首相・斉藤実にこの意向を伝えると同時に、内大臣の牧野伸顕・元老の西園寺公望・陸軍大臣・海軍大臣、そして望月圭介以下の政友会の実力代議士たちに、これを強く主張している。
当時、伊東邸に出入りしていた外交官・吉田茂に対して、「英国に頼って1ヵ年の猶予を求むべく動くべしと内田外相に伝えよ」とも指示している。
結果的には、この伊東の主張は実現しなかった。これ以降、軍部が政党政治家や枢密院を抑え、日本の政治を動かしていく。そして太平洋戦争に突入する。
参考文献:
「伊東巳代治関係文書」 編集・国立国会図書館 憲政資料室
「明治・大正・昭和政界秘史」 著・若槻礼次郎
「日本叩きを封殺せよー情報官僚伊東巳代治のメディア戦略ー」 著・原田武夫