2019年8月14日水曜日

伊東巳代治(4)

伊東巳代治の日本史への貢献は、大日本帝国憲法の制定と日清戦争勝利の2つが大きい。

彼より4歳・3歳年長の金子堅太郎と高橋是清の2人の人生の名場面が、日露戦争勝利であったことに比べると10年早い。
その証拠に、伊東は日清戦争勝利の直後、明治28年8月20日に「男爵」を授けられている。ちなみに、金子堅太郎は明治33年、高橋是清は明治40年に「男爵」になっている。

明治5年からフランス・ドイツで法律を学んだ井上毅や、ハーバード・ロースクールで学位を取った金子堅太郎に一歩もひけを取らず、伊東は3羽ガラスの1人として、見事に大日本帝国憲法を作りあげた。これが可能であったのは、16歳の時からの実質的な弁護士活動、その後のお雇い外国人法律家2人から学びながら工部省の法律実務を取り仕切ったことにある。法律家としての実力は、井上や金子より伊東のほうが上だったかも知れない。

日清戦争での功績は、情報官僚として日本や世界のメディアを操作して、世界の世論を日本有利に誘導したことにある。ロイター通信を含めて外国の通信社にも、日本有利の記事を書かせるべく
裏金を渡している。伊藤博文の了解を得た上でのことである。


人生の前半において2つの大仕事をやり遂げた伊東は、大正から昭和になると、「いじめっ子」ぶりを発揮する。「弱い者いじめ」ではない。「強い者いじめ」である。長寿を保った晩年の山形有朋のイメージにも似ている。

大正の後半から昭和の初めにかけて、伊東巳代治は「内閣の鬼門」と恐れられ、大物政党政治家たちから忌み嫌われる。多くの内閣総理大臣が伊東に虐められ、そして泣かされた。

若槻礼次郎がその晩年に書き、昭和25年に出版された「明治・大正・昭和政界秘史」という本がある。伊東巳代治はすでに亡くなっていたが、実名では書きにくかったのか、「枢密院の老顧問官」という表現で伊東のことが書かれている。

昭和2年の話である。

「果たせるかな、枢密院はこの事は憲法七十条に当たらんと言い出した」

「枢密院の老顧問官は、この案を討議する時、政府の外交が軟弱であるといって攻撃した。これは問題外であるから、私も外務大臣の幣原喜重郎も、黙って答えなかった」

「枢密院は頑として応じない。枢密院議長の倉富勇三郎君は私に非常に好意を持ってくれていたが、彼は枢密院の中心勢力ではない」

「その老顧問官は、ますます調子に乗って、陛下の御前をも顧みず、町内で知らぬは亭主ばかりなり、という俗悪な川柳まで引いて、外交攻撃をした。まるで枢密院を自分一人で背負っているような勢いであった。私はもう癪にさわって、一つ相手になって喧嘩をしたかったが、場所が場所であり(注・宮中)、立場が立場だから、じっと腹の虫を抑えて黙っていた。政府も閣僚全部出席したが、わずか十人ばかり、枢密院のほうは二十何人で、とうとう政府案は否決され、内閣は総辞職した」

よほどくやしかったのであろう。若槻はこのように伊東のことを悪口言っている。若槻だけではない。田中義一、浜口雄幸などの総理大臣も伊東に虐められている。


ただ、伊東には伊東の言い分があった。

議会制民主主義を想定した明治憲法を制定するにあたり、当時の自由民権運動の動きから察して、将来、過度に大衆迎合するデモクラシー政治が行われる可能性があった。同時に左翼思想を抑える必要もある。この制御機能を持ったのが枢密院である。

枢密院は天皇の諮問機関で、「憲法の番人」とも呼ばれ、日本だけでなく、国王・皇帝を戴く欧州の国々にも存在した。伊東の権力の源泉は、この枢密院のボスであったことにある。枢密院のボスには時の内閣を総辞職に追い込むだけの力があった。

「自分が頑張らなければ皇室に災いが及ぶ恐れがある」との使命感が伊東には常にあった。

今一つは、昭和2年のこの時点では、伊東のほうが若槻よりも位階(いかい)がはるかに上で、その分「若槻より伊東のほうが格段に偉かった」ともいえる。
この時、伊東巳代治70歳、伯爵・正二位である。かたや若槻礼次郎60歳、爵位無し・正五位である。(若槻は昭和6年に男爵、昭和17年に従二位)

爵位は血統による世襲、または国家功労者への栄誉称号だから、伯爵だから俺は偉い、とはかならずしもいえない。本人も世間もそのように認識している。

これに比べ、位階とは国家の制度に基つ゛く個人の序列であり、天皇との距離を示す。
正二位の人が正五位の人に対して、「俺のほうが偉い」と思うのは、当時としては自然な感覚である。ちなみに伊東は死去の際、従一位を追叙されている。

戦後の総理大臣で従一位は、幣原喜重郎・吉田茂・佐藤栄作の3人で、鳩山一郎・岸信介・池田勇人などはその下の正二位である。


ただし、その後の日本史を結果論から判断すると、この時の政策論争(台湾銀行の救済)の正否は若槻に軍配があがる気がする。


このような「いじめっ子」ぶりの度が過ぎて、晩年の伊東は時の総理大臣から煙たがられていたが、死の前年(76歳の時)、後世に光るみごとな政治判断をしている。

「国際連盟脱退反対運動」である。

松岡洋右の国際連盟脱退演説は、当時、軍部を筆頭に、朝野、左右を問わず、国を挙げて熱狂的に支持された。

伊東巳代治ただ1人、これに対して絶対反対の論陣を張る。

第一に、このことにより日本は国際的に孤立して軍事的危機におちいる恐れがある。第二は、もし脱退するのであれば、国際連盟からの委任により日本が統治しているサイパン・テニアン・トラックを含む南洋群島を引き続き日本が統治する法的根拠がない。というのが伊東の言い分であり、まさに正論である。

首相・斉藤実にこの意向を伝えると同時に、内大臣の牧野伸顕・元老の西園寺公望・陸軍大臣・海軍大臣、そして望月圭介以下の政友会の実力代議士たちに、これを強く主張している。
当時、伊東邸に出入りしていた外交官・吉田茂に対して、「英国に頼って1ヵ年の猶予を求むべく動くべしと内田外相に伝えよ」とも指示している。

結果的には、この伊東の主張は実現しなかった。これ以降、軍部が政党政治家や枢密院を抑え、日本の政治を動かしていく。そして太平洋戦争に突入する。



参考文献:
「伊東巳代治関係文書」 編集・国立国会図書館 憲政資料室
「明治・大正・昭和政界秘史」 著・若槻礼次郎
「日本叩きを封殺せよー情報官僚伊東巳代治のメディア戦略ー」 著・原田武夫























 


伊東巳代治(3)

英語のできる少年弁護士・伊東巳代治に最初に目をつけた日本人は、兵庫県令の神田孝平だ。
三顧の礼で本人とクリュッチリーを説得して、新聞社と弁護士の両方の仕事を続けて良いという条件で、「兵庫県官史に採用する」との辞令を出している。本人が17歳の時だ。翌年、長崎より神戸に両親を迎えて一家を構え、その翌年の明治8年、19歳で結婚している。ずいぶん親孝行な息子である。

この当時の月給は、3つの仕事を合わせると、軽く150円を超えていたと思える。先のブログで紹介したように、21歳の高橋是清と20歳の末松謙澄が、巳代治の少年時代の英語の師匠・フルベッキの読み終えた英字新聞を翻訳して、日日新聞から50円を貰っていたのはこの頃の話である。

それまでは代言人といって無試験でやれていた弁護士に、明治9年、試験制度が導入される。巳代治の実力なら軽く合格できるので、本人は受験を考えた。

これに対して、恩人の元兵庫県令の神田は、「そんなチマチマした資格試験など止めてしまえ」と反対し、「今後の有望株である工部卿・伊藤博文に会ってみろ」と伊藤との面談をセットしてしまった。


この面談は、明治9年12月27日、場所は現在のホテルオークラに近い霊南坂の工部卿邸で行われた。伊藤博文36歳、伊東巳代治20歳である。「君は思ったよりずいぶん若いな。英語ができると聞くが書くほうはどのくらいか?」と伊藤が聞く。「一人前にはできると思います」と伊東が答える。

伊藤は書棚から、来たばかりのアメリカ公使からの手紙を見せて、だいたいの返事のアウトラインを話し、「これに対して返事を書いてみろ」と命じる。巳代治はすぐさま英文をしたためた。それを読んだ伊藤は、「良いだろう」と言って末尾に自分のサインをして、自分で封筒の糊をなめて、「この手紙を出しておいてくれ」と書生に命じた。

伊東の書いた英文を、伊藤が100%理解したかどうかは疑わしい。この時の英語力を今風にTOEICでいうと、伊藤850点、伊東950点ぐらいではないか、と想像する。

伊藤博文という人は、幕末に長州藩から井上馨らと半年ほどロンドンに留学しているが、もともとたいした英語力ではない。志士仲間には、「俺は長崎でフルベッキ先生から英語を教わった」と自慢していたらしいが、実際はフルベッキの孫弟子の日本人から習ったらしい。巳代治にはばれてしまうから、フルベッキの弟子とは言わなかった。

ただ、伊藤という人は努力家で、それ以降も暇をみては自分で英語の勉強を続けていた。
陽性であけっぴろげの人だから、「君は若いけれど、英語に関しては吾輩の兄弟子だな」ぐらいのことは言った可能性がある。

「米国人法律家・デニアンと英国人法律家・ビートンを工部省で雇った。君はこの2人から法律を習って、同時に2人と一緒に工部省で取り扱う法律事務を全部処理してくれ」と伊藤は言う。

給料の話になった。神田元県令から伊東が高給を取っていることを聞いていたので、伊藤は工部省の給与レベルだと安くなるのでは、と気にしていたらしい。これに対して伊東は、カーネギーがスコット大佐に答えたのとまったく同じ返答をしている。

「このような素晴らしい法律家の先生2人と一緒に仕事ができるなら、留学するのと同じです。給料などいくらでも良いです。ぜひご奉公させてください」
「それじゃ、君が干上がってしまうじゃないか」と伊藤は大笑いしたという。

カーネギーにしても、巳代治にしても、大成功する人はこのあたりの呼吸・心意気を理解しているようである。

長くなってきた。伊東巳代治の少年時代の小伝はこのあたりで終える。











伊東巳代治(2)

20歳で伊藤博文の知遇を得るまでの少年時代を、足ばやにたどってみたい。

安政4年(1858)、長崎奉行職の下級武士の第3子として生まれた。他の四天王、井上毅は13歳年上、金子堅太郎4歳、末松謙澄は2歳年上である。

8歳の時、オランダ系アメリカ人・フルベッキの門を叩き英語の勉強を始める。本物の英語を8歳から学んだことも幸運であったが、「明治のお雇い外国人の筆頭・フルベッキの長崎時代の直弟子」という事実が、のちの巳代治の人脈形成に大きな意味を持つ。

その3年前、来日早々のフルベッキから英語の個人授業を受けていたのが、佐賀藩の大隈重信・副島種臣の2人だ。

少年の語学の上達は早い。10歳の頃には巳代治はすでにかなりの英語使いになっていた。
その頃、20歳を過ぎてフルベッキから英語を習い始め、なかなか上達せずもたもたしていたのが、大山巌・陸奥宗光である。陸奥はこの頃、阪本竜馬の海援隊に属し長崎にいた。ただ、竜馬がフルベッキの門を叩いた形跡はない。

明治4年、工部省電信寮は、英語のできる青少年を官費生として採用する必要に迫られた。当時の電信は英文電報のみを扱っていた。英語のできる青少年は長崎に多い。電信頭・石丸安世は自分で長崎まで出張して試験を行い、15歳になったばかりの巳代治はこれに合格する。

東京での1年間で卒業、郷里の長崎配属になったものの、半年足らずで辞めてしまう。「約束が違う」というのが巳代治の言い分だった。英語人材を数多く集めるために、「成績優秀者は卒業のあと欧米に留学させる」というカラ手形を、工部省は生徒たちに切っていたのである。

その後、まだ16歳だが、巳代治は神戸の英字新聞「兵庫アンド大阪ヘラルド」に入社する。英語と電信の知識がものをいった。

社長のクリュッチリーは弁護士でもあった。巳代治の英語力と向上心を高く買い、その可愛がりようは尋常ではなかった。自分の宿泊先の兵庫ホテル(日本最古の洋式ホテル)に1室を与え、法律書を買い与え、法律家として鍛えあげる。彼はこのホテルに法律事務所を置き、国際弁護士としてアメリカ領事館と兵庫県との訴訟案件などを手掛けていた。巳代治を国際弁護士に育て上げることは、クリュッチリーにとっても都合がよい。
巳代治は新聞社の社員、国際弁護士の両方の仕事で大車輪の活躍をする。



伊東巳代治

伊東巳代治は伊藤博文の四天王の1人、というのが歴史家の評である。他の3人は年齢順に、井上毅(こわし)・金子堅太郎・末松謙澄となる。このうち井上・金子・伊東は「チーム伊藤の3羽ガラス」として、大日本帝国憲法の制定に奔走する。4人の中では巳代治が一番若い。

明治18年、伊藤博文が初代内閣総理大臣に就任すると、巳代治は総理秘書官になる。28歳。
明治21年4月、明治憲法案は伊藤総理より天皇に提出される。明治25年、第二次伊藤内閣が成立すると内閣書記官長(現在の官房長官)に就任する。この時36歳である。

このスピード出世のキーワードは、「英語」・「電信」・「法律」の3つだ。もちろん人物としての底力があったことは言うまでもない。

「幼少にして英語と電信の知識を身に着け、すさまじいスピードで立身出世した」伊東巳代治の経歴は、アンドリュー・カーネギーの成功物語に似ている。

本人の人柄と電信知識を買って、ペンシルベニア鉄道重役のスコット大佐が自分の手元に引き抜いたのは、カーネギーが19歳の時である。しばらくして南北戦争が勃発し、スコット大佐は陸軍次官に抜擢され、カーネギーも一緒にホワイトハウスで勤務する。リンカーン大統領がひんぱんに電信室に顔を出し、「アンディ君、グランド将軍からの電報はまだかね?」と聞いていたのは、彼が20代前半のことだ。

かたや、巳代治が博文の知遇を得たのは明治9年の年末で、本人が20歳の時である。博文の側近として岩倉具視を味方につけて、大隈重信を追いつめていたのは、巳代治が20代の前半の頃である。

若い頃から超大物たちに囲まれて仕事をしたのが2人の共通点であり、これらの人脈が大きな財産になる。

この2人は、いわば早熟の人である。言葉を換えれば、若くして世間に出て、仕事をしながら実力を増大させていった人ともいえる。カーネギーが本格的に仕事を始めたのは15歳、巳代治は16歳の時である。

実業家・政治家として大成功した2人だが、人生における出発点が2人とも電信局勤務というのが興味深い。

明治5年、上海―長崎間に電信海底ケーブルが設置された。当時、「電信とはすなわち文明」といっても過言ではなかった。今風に言えば、伊藤巳代治は16歳にしてハイレベルのITスキルを身に付けた英語の達人であった。現在でも、どこからでも声がかかる1流の人材である。


2019年8月8日木曜日

末松謙澄と高橋是清

明治7年、21歳の高橋是清は、開成学校の教頭・フルベッキの洋館のひと間で、居候のかたちで先生の手伝いをしながら英語の勉強をしていた。

フルベッキのお嬢さんのところに、佐々木高行のお嬢さんが、若い書生を供にして英語を学びにくる。その書生は20歳で、飾りっ気のない素朴な好青年で、漢学の素養があり詩をつくる。

高橋は、この豊前(福岡県)の庄屋の息子だという青年が気に入った。君どうだ英学をやらんか、僕が教えてあげるよ。その代り僕は漢学が出来ぬから教えてくれよ、と言う。話がまとまり、お嬢さん同士の勉強の時間、高橋とこの青年・末松謙澄(すえまつけんちょう)の交換教授が始まった。

2人は兄弟同様の親しい間柄になる。
ある日、末松が師範学校の入試に合格したことを嬉しそうに高橋に告げた。高橋は心の中に、なんだ師範学校なんぞという気がして、末松のために喜んでやる気がしない。では君は、一生学校教師で暮らす気か、と高橋が突っ込むと、末松はどぎまぎして、いや、そう決めたわけではない。と言う。

高橋は反対を唱えた。師範学校などよし給え。それより僕ら2人して稼いで収入を得て学問しようではないか。末松は不安で、そうしてもいいけど、一体何をするの?と尋ねる。
高橋は一案を出した。フルベッキ先生のところに外国の新聞がいろいろ来る。その英字新聞の記事を翻訳して、日本の新聞社に売って原稿料を取ろう。末松もなるほどそれはいいと、その勧めに従った。

ところが末松が師範学校の校長に会ってそのことを伝えたら、たちまち小言をいわれた。佐々木夫人も、心得違いをしてはならぬ、と説教する。末松の心はまたぐらついて、高橋のところに来て、僕はやっぱり官費生になるよ、と言う。

高橋は、そこでまたしても、師範学校をやめるべしと末松を説いた。その上に、自分で師範学校へ出かけて校長の箕作秋坪(みつくりしゅうへい)先生に直接会って談じた。はじめは難色を示した校長を説き伏せて、ついにその承諾を得た。こうなっては末松も高橋の言に従わざるをえない。


2人は翻訳の仕事を始めた。2人がかりで原稿を書き、ではどこに売りに行こうか、という段取りになった。当時の一流新聞は、「郵便報知新聞」・「朝野新聞」・「読売新聞」・「日日新聞」の4社である。高橋は順番に原稿の売り込みに出かけたが、前の3社はまったく相手にしてくれない。高橋は当てが外れてしまった。最後の頼みの綱は「日日新聞」(のちの毎日新聞)だけだ。

びくびくしながら訪問すると、甫喜山(ほきやま)という人が会ってくれた。
ともかく原稿を見せ給え。採用したら1枚につき50銭払おうと言ってくれた。2人は張り切って原稿を持ち込んだが、なかなか新聞に出ない。しばらくするとポツリポツリと出るようになった。

月末に原稿料をもらいに行った。甫喜山氏がまた会ってくれ、枚数はまだかぞえてないが、一体君たちはひと月どのくらいあればやっていけるのかと聞く。2人でどうしても50円かかります、と高橋が言うと、それでは50円あげよう、と気持ちよく渡してくれた。
(明治8年の巡査の初任給が4円、明治13年頃の東大や慶応卒の初任給が18円だったことを考えれば、高橋はずいぶんふっかけたものだ)

何ヶ月か経って、日日新聞から帰った末松が、浮かぬ顔をして、もう駄目だという。高橋が聞いてみると、日日新聞に福地源一郎という偉い先生が入社された。先生は外国語ができるから、もう我々は要らなくなる。口の乾上りだ。と末松はしょげている。

高橋は、ここでもまた、末松を励まして言う。
なるほど福地先生は偉い人だろうが、年もいっているだろう。若い僕らを追い出したりはなさるまい。あたって砕けろだ。とにかく出かけて話をしてみようではないか。(この時福地は34歳。日日新聞には社長含みで入社している)

果たして高橋の予想した通りであった。福地は末松の学才を認め、その人柄を愛し、その庇護者になる。福地の紹介で、伊藤博文・西郷従道などの大官の許に出入りするようになる。そして役人になり、外国へも留学し、その出世の途が大きく開かれていった。

高橋はかように語り、福地をもって末松一生の恩人と言っている。しかし以上の談話を通して考えると、福地のほうは第2の恩人といってよく、第1の恩人は高橋是清その人だといわなくてはなるまい。しかし、高橋は、末松君とは兄弟分だというだけで、恩人ぶったりしていないのが奥ゆかしい。


この文章は、高橋是清の懐旧談を森銑三が整理して、「明治人物夜話」の中で紹介したものを、筆者がさらに短くまとめ、少しだけ注を入れた。


この末松謙澄という人は、伊藤博文内閣で逓信大臣・内務大臣と出世するのだが、他の大官にくらべて一風変わった人だった。

明治11年、24歳の時、抜擢されてロンドンの駐在日本公使館付一等書記官見習いで赴任するが、まもなく依願免官する。

勉強に専念したいといって、ケンブリッジ大学のセント・ジョンズカレッジに自費留学している。お金が充分にあったわけではない。学費は三井財閥からの借金と、在英中の前田利武(のちの男爵)の家庭教師でまかなっている。外交官の身分を捨てて、このように身を処すのは相当な勇気が要ったかと思う。

兄貴分の高橋是清に相談して、「やってみろよ、なんとかなるぜ。一等書記官なぞ辞めてしまえ」と、超楽観主義者の高橋是清に背中を押されたのかも知れない。

ケンブリッジで法学士の学位を得るが、この人は文学好きであった。明治12年にロンドンで「義経ージンギスカン説」を唱える論文を英語で発表し、明治15年には「源氏物語」の英訳本をロンドンで発刊している。

話は前後するが、伊藤の紹介で知己を得た山県有朋の秘書官として、末松は明治10年の西南戦争に従軍している。同年9月、西郷隆盛宛ての降伏勧告文を起草したのはこの人で、一代の名文といわれた。23歳の時である。

大正9年、流行していたスペイン風邪で急逝したのは残念である。享年65

























2019年8月1日木曜日

6歳の酒飲み宮司

富山県選出の代議士で綿貫民輔という人がいる。すでに政治家は隠退されたが、今なお元気で神社庁の「長老」をされていると聞く。92歳になられる。

10年ほど前、この人が新聞か週刊誌に書かれた話が面白かった。記憶を頼りにご紹介したい。

綿貫さんは、富山県井波の古い神社の跡取り息子に生まれた。祖父が宮司だったが、4期目の町長を務め会社の経営者でもあったので、毎日が宴会でほとんど家にいない。
養子に入った父が神職を継ぐ予定だったが、当時県会議員をしていて、これまた祖父同様ほとんど家を留守にしている。お二人とも神官の仕事が嫌だったのかも知れない。

2人に愛想を尽かした祖母は、後継ぎとして孫に目を付ける。厳しい祖母は、小学校にあがる前からこの人に神主の儀礼を教え込む。まだ読み書きもできない孫に祝詞(のりと)を暗唱させてしまった。

6歳で宮司初デビューの時は、わけもわからないまま袴をはかされ、船に乗せられた。
宮司の代理として、河の上流にある30軒ほどの集落に祝詞をあげに行った。

村人総出で出迎えてくれた。
「若様が来てくれた!」と集落を挙げての大歓迎であった。なんとか無事に神事を終えたら、宴席が用意されていて酒が出た。

「私は子供ですから」と一度は酒は断ったのだが、
「宮司代理だから御神酒(おみき)を少しだけ飲んでください」と集落の長老が言う。
子供心にも、「これも仕事だ」と思い、思い切って、おちょこ1杯飲んだら旨かった。もう一杯、と勧められてまた飲んだ。そして酔っぱらってしまった。というのが本人の述懐である。家に帰って、親に叱られたか褒められたかは書いてなかった。


この人は衆議院議員に13回当選して、いくつかの大臣をやり、衆議院議長まで務めている。

第1回から最後の13回まで、この時祝詞をあげてお酒を飲まされたこの30軒の集落の票は、1票たりともほかの候補者に渡らず、すべて私に入れてくださった。ありがたいことだ。と書かれてあった。


92歳の今なお、元気で仕事をされ、お酒も飲んでおられるらしい。
きっとおなかの中に、立派な「酒虫」が1匹いるのだと思う。