2019年8月14日水曜日

伊東巳代治

伊東巳代治は伊藤博文の四天王の1人、というのが歴史家の評である。他の3人は年齢順に、井上毅(こわし)・金子堅太郎・末松謙澄となる。このうち井上・金子・伊東は「チーム伊藤の3羽ガラス」として、大日本帝国憲法の制定に奔走する。4人の中では巳代治が一番若い。

明治18年、伊藤博文が初代内閣総理大臣に就任すると、巳代治は総理秘書官になる。28歳。
明治21年4月、明治憲法案は伊藤総理より天皇に提出される。明治25年、第二次伊藤内閣が成立すると内閣書記官長(現在の官房長官)に就任する。この時36歳である。

このスピード出世のキーワードは、「英語」・「電信」・「法律」の3つだ。もちろん人物としての底力があったことは言うまでもない。

「幼少にして英語と電信の知識を身に着け、すさまじいスピードで立身出世した」伊東巳代治の経歴は、アンドリュー・カーネギーの成功物語に似ている。

本人の人柄と電信知識を買って、ペンシルベニア鉄道重役のスコット大佐が自分の手元に引き抜いたのは、カーネギーが19歳の時である。しばらくして南北戦争が勃発し、スコット大佐は陸軍次官に抜擢され、カーネギーも一緒にホワイトハウスで勤務する。リンカーン大統領がひんぱんに電信室に顔を出し、「アンディ君、グランド将軍からの電報はまだかね?」と聞いていたのは、彼が20代前半のことだ。

かたや、巳代治が博文の知遇を得たのは明治9年の年末で、本人が20歳の時である。博文の側近として岩倉具視を味方につけて、大隈重信を追いつめていたのは、巳代治が20代の前半の頃である。

若い頃から超大物たちに囲まれて仕事をしたのが2人の共通点であり、これらの人脈が大きな財産になる。

この2人は、いわば早熟の人である。言葉を換えれば、若くして世間に出て、仕事をしながら実力を増大させていった人ともいえる。カーネギーが本格的に仕事を始めたのは15歳、巳代治は16歳の時である。

実業家・政治家として大成功した2人だが、人生における出発点が2人とも電信局勤務というのが興味深い。

明治5年、上海―長崎間に電信海底ケーブルが設置された。当時、「電信とはすなわち文明」といっても過言ではなかった。今風に言えば、伊藤巳代治は16歳にしてハイレベルのITスキルを身に付けた英語の達人であった。現在でも、どこからでも声がかかる1流の人材である。


0 件のコメント:

コメントを投稿