英語のできる少年弁護士・伊東巳代治に最初に目をつけた日本人は、兵庫県令の神田孝平だ。
三顧の礼で本人とクリュッチリーを説得して、新聞社と弁護士の両方の仕事を続けて良いという条件で、「兵庫県官史に採用する」との辞令を出している。本人が17歳の時だ。翌年、長崎より神戸に両親を迎えて一家を構え、その翌年の明治8年、19歳で結婚している。ずいぶん親孝行な息子である。
この当時の月給は、3つの仕事を合わせると、軽く150円を超えていたと思える。先のブログで紹介したように、21歳の高橋是清と20歳の末松謙澄が、巳代治の少年時代の英語の師匠・フルベッキの読み終えた英字新聞を翻訳して、日日新聞から50円を貰っていたのはこの頃の話である。
それまでは代言人といって無試験でやれていた弁護士に、明治9年、試験制度が導入される。巳代治の実力なら軽く合格できるので、本人は受験を考えた。
これに対して、恩人の元兵庫県令の神田は、「そんなチマチマした資格試験など止めてしまえ」と反対し、「今後の有望株である工部卿・伊藤博文に会ってみろ」と伊藤との面談をセットしてしまった。
この面談は、明治9年12月27日、場所は現在のホテルオークラに近い霊南坂の工部卿邸で行われた。伊藤博文36歳、伊東巳代治20歳である。「君は思ったよりずいぶん若いな。英語ができると聞くが書くほうはどのくらいか?」と伊藤が聞く。「一人前にはできると思います」と伊東が答える。
伊藤は書棚から、来たばかりのアメリカ公使からの手紙を見せて、だいたいの返事のアウトラインを話し、「これに対して返事を書いてみろ」と命じる。巳代治はすぐさま英文をしたためた。それを読んだ伊藤は、「良いだろう」と言って末尾に自分のサインをして、自分で封筒の糊をなめて、「この手紙を出しておいてくれ」と書生に命じた。
伊東の書いた英文を、伊藤が100%理解したかどうかは疑わしい。この時の英語力を今風にTOEICでいうと、伊藤850点、伊東950点ぐらいではないか、と想像する。
伊藤博文という人は、幕末に長州藩から井上馨らと半年ほどロンドンに留学しているが、もともとたいした英語力ではない。志士仲間には、「俺は長崎でフルベッキ先生から英語を教わった」と自慢していたらしいが、実際はフルベッキの孫弟子の日本人から習ったらしい。巳代治にはばれてしまうから、フルベッキの弟子とは言わなかった。
ただ、伊藤という人は努力家で、それ以降も暇をみては自分で英語の勉強を続けていた。
陽性であけっぴろげの人だから、「君は若いけれど、英語に関しては吾輩の兄弟子だな」ぐらいのことは言った可能性がある。
「米国人法律家・デニアンと英国人法律家・ビートンを工部省で雇った。君はこの2人から法律を習って、同時に2人と一緒に工部省で取り扱う法律事務を全部処理してくれ」と伊藤は言う。
給料の話になった。神田元県令から伊東が高給を取っていることを聞いていたので、伊藤は工部省の給与レベルだと安くなるのでは、と気にしていたらしい。これに対して伊東は、カーネギーがスコット大佐に答えたのとまったく同じ返答をしている。
「このような素晴らしい法律家の先生2人と一緒に仕事ができるなら、留学するのと同じです。給料などいくらでも良いです。ぜひご奉公させてください」
「それじゃ、君が干上がってしまうじゃないか」と伊藤は大笑いしたという。
カーネギーにしても、巳代治にしても、大成功する人はこのあたりの呼吸・心意気を理解しているようである。
長くなってきた。伊東巳代治の少年時代の小伝はこのあたりで終える。
0 件のコメント:
コメントを投稿