2019年10月3日木曜日

終戦の日の鉄道列車

昭和20年8月14日午前6時、北九州の門司(もじ)駅を出発した列車は、翌日15日12時13分に東京駅に着いた。予定の到着時刻の正午を13分過ぎていた。

運転士は急いでホームに飛び降り、助役室に走った。
「申し訳ございません!予定より13分も遅れました」と大声で詫びた。

「静かにしろ!」とだれかが叱咤した。天皇陛下の玉音放送が終わり、総理大臣・鈴木貫太郎の声がラジオから流れていた。


20年ほど前に読んだ本の一部を、記憶を頼りに書いたので、正確には13分ではなかったかも知れない。しかし、終戦の日、日本全土の鉄道はほぼダイヤ通りに運行されていたのは間違いない。

下関・岩国・福山・岡山・姫路・神戸・大阪・名古屋・浜松・静岡・横浜・東京などの各駅舎は、B29による焼夷弾で焼かれていた。9日前には、広島は原爆で消滅していた。この列車が通過した3・4時間後、すなわち8月14日の正午過ぎに、山口県の光海軍工廠はB29爆撃機157機の攻撃により、学徒動員の133人の生徒を含む738人が犠牲となった。40分の間に885トンの爆弾が投下されたという。

このような状況の中でも、鉄道省の作業員と陸軍工兵隊の兵隊たちの徹夜の復旧作業により、日本全土の鉄道路線は、ほぼ正常に動いていたのである。ドイツの敗戦の日の光景とはまったく違う。

この本を読んだ時、「そうなんだ。日本人というのは凄いなあ」と思ったが、以来、年を経るごとに、この記述の感激が日増しに強くなってくる。「出典はどの本だったのか?」と気になって、関係ありそうな本に出くわすと、手にとってページをめくるのだが、今なお出典は不明である。


宮脇俊三著・「時刻表昭和史」という名著があると聞き、もしかしたら、と思い読んでみたのだが、残念ながらこの話は出ていなかった。しかし、筆者自身が体験した、別の場所でのこの日の実話が書かれてあった。

宮脇俊三は、昭和20年3月に成蹊高校を卒業し、同年4月に東京帝国大学文学部に入学している。(宮脇氏と同じ大学を卒業された畏友のTさんから、宮脇さんは最初は理学部に入学しその後文学部西洋史学科に転じた、と最近聞いた)。母と姉は新潟県の村上に疎開した。父親と本人は東京に残ったが、食糧調達のため東京・村上間をひんぱんに往復していた。父親は山形県の大石田に工場を持つ、東京の軍需会社の経営者なので、鉄道切符の取得では普通の人に比べて優遇されていたようだ。

宮脇氏は、次のように書いている。

父の工場に立ち寄り体調を崩した私は、8月14日は父と共に山形県の天童温泉で一泊した。15日は村上に帰る日である。

宿の主人が、正午に天皇陛下の放送があるそうです、と伝えに来た。
「いったい何だろう」と私が思わず言うと、「わからん。いよいよ重大なことになるな」と父が言った。
宿の主人が部屋を出ると、「いいか、どんな放送があっても黙っているのだぞ」と小声で言った。

今泉に着いたのは11時30分だった。今泉駅前の広場は真夏の太陽が照りかえしてまぶしかった。中央には机が置かれ、その上にラジオがのっていて、長いコードが駅舎から伸びていた。

正午が近つ゛くと、人々が黙々と集まって来た。この日も朝から艦載機が来襲していた。ラジオからは絶えず軍管区情報が流れた。11時55分を過ぎても、「敵機は鹿島灘上空にあり」といった放送が続くので、はたして本当に正午から天皇の放送があるのだろうかと私は思った。

けれども、正午直前になると、「しばらく軍管区情報を中断します」との放送があり、つつ゛いて時報が鳴った。私たちは姿勢を正し、頭を垂れた。固唾(かたず)を呑(の)んでいると、雑音の中から
「君が代」が流れてきた。

天皇の放送がはじまった。雑音がひどく聞き取りにくく、難解であった。けれども、「敵は残虐なる爆弾を使用し」とか「忍び難きを忍び」という生きた言葉は、なまなましく伝わってきた。
放送が終わっても、人びとは黙ったまま棒のように立っていた。ラジオの前を離れてよいかどうか迷っているようでもあった。目まいがするような真夏の蝉(せみ)しぐれの正午であった。


時は止まっていたが汽車は走っていた。

まもなく女子の改札係が、坂町行きが来ると告げた。父と私は今泉駅のホームに立って、米沢発坂町行の米沢線の列車が入って来るのを待った。こんなときでも汽車が走るのか、私は信じられない思いがしていた。

けれども、坂町行109号列車は入ってきた。
いつもと同じ蒸気機関車が、動輪の間からホームに蒸気を吹きつけながら、何事もなかったかのように進入してきた。

機関士も助士も、たしかに乗っていて、いつものように助役からタブレットの輪を受けとっていた。機関士たちは天皇の放送を聞かなかったのだろうか。あの放送は全国民が聞かねばならなかったはずだが、と私は思った。

昭和20年8月15日正午という、予告された歴史的時刻を無視して、日本の汽車は時刻通りに走っていたのである。




























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