持統・元明・元正の3人の女性天皇の遺言を紹介したい。
我が国2番目の正史「続日本紀」は、文武天皇元年(697)8月1日から記述がはじまる。
「8月1日、持統天皇から位を譲りうけて皇位につかれた」と冒頭にある。15歳で即位したこの少年天皇は、まことに残念なことに25歳で崩御された。
文武天皇は、持統天皇の孫・元明天皇の子・元正天皇の弟にあたる。3人の女性天皇は唐の則天武后とは異なり、自分が皇位を希望したのではなく、男性天皇に皇位をつなぐため、中継ぎとしてその地位についた。
天皇に即位するはずの草壁皇子(天武・持統の子)が27歳の若さで亡くなったことが、3人の女性の苦難の始まりであった。この時6歳だった軽(かる)皇子(文武天皇)を皇位につかせるべく、3人は心を合わせて努力する。そして文武天皇は15歳で即位された。
あろうことか、この文武天皇が25歳の若さで崩御されたのである。この時、持統太上天皇はすでに崩御されていたので、孫の死という不幸を見ないですんだ。母元明・姉元正の悲しみはいかほどであったことか。
この時6歳であった文武天皇の子首(おびと)皇子(聖武天皇)に皇位を継承させるべく、その祖母・元明天皇、伯母・元正天皇の奮戦がはじまる。すぐさま元明が天皇に即位し、8年後に元明が老齢になると、はつらつとした35歳の伯母の元正が即位して、その後、みごとに聖武天皇にバトンを渡す。
「続日本紀」を読むと、この3人の女性天皇がそろって聡明で慈悲深い人柄であったことがわかる。
天智・天武の両男性天皇は、いわば実力派の天皇であった。自らの判断で臣下に指示を与え、中国の皇帝に似たかたちでこの国を統治した。同時にこの国の将来の青写真をつくった。
それに比べ、3人の女性天皇は、聡明ではあるが女性でもあり、大筋だけは自らが指示して、政治の実務は太政官(太政大臣・左大臣・右大臣)にほぼ任せていたことが「続日本紀」から推測される。そしてこのことが、それ以降の日本の国柄が、中国や朝鮮半島の国々とはまったく異なるものになる原因の一つではあるまいかと考える。
よって、これら女性天皇の遺言には、政治向きの言葉は一切ない。
「自分の葬儀はつとめて簡素におこなえ。費用を切り詰めて倹約して民を煩わせるな。喪(も)の期間を短くして役人や民が仕事を中断しないようにせよ」などの言葉がくどいほど述べられている。
「続日本紀」には、次のように記載されている。
持統天皇の遺言
大宝2年(702)12月22日、太上天皇が崩御された。遺詔に次のように述べられた。
「素服(麻の白い無地の喪服)を着たり、挙哀(こあい・死者を悼んで泣き叫ぶ中国・朝鮮式の儀礼)をすることがないようににせよ。内外の文官・武官は任務を平常の通りに行なえ。葬儀の儀礼については、つとめて倹約にせよ」
元明天皇の遺言
養老5年(721)10月13日、太上天皇(元明)が右大臣・従二位の長屋王と、参議従三位の藤原朝臣房前を召し入れて、次のように詔された。
「朕は万物の生命には必ず死があると聞いている。これは天地の道理であり、どうして悲しむべきであろうか。葬儀を盛大に行い、人民の生業をこわし、服装を飾って人民の生活を傷つけることは、朕の取らないところである。朕が崩じた後は、大和国添上(そうのかみ)郡佐保山の北の峰に、竈(かまど)を造って火葬に付し、改めて他の場所に移してはならない。天皇は通常と同じように政務万般をとり行なえ。皇親や公卿および文武の百官は、簡単に職場をはなれて、柩車につき従うべきではない。それぞれ自分の本務を守り、平素と同じように仕事をするように」
10月16日、太上天皇はまた次のように詔した。
「葬儀に用いるものは、すべて先に出した勅に従い、欠けるところがあってはならない。その轜車(じしゃ・棺をのせる車)や天皇の乗る車のこしらえは、金玉を刻みちりばめたり、絵具で描き飾ってはならない。彩色しない粗末なものを用い、卑しく控え目にせよ」
12月7日、平城京の中安殿で太上天皇は崩御された。時に御年61歳であった。
12月13日、太上天皇を大和国添上郡椎山(ならやま)の陵(みささぎ)に葬った。葬儀は行なわなかった。遺詔にしたがったのである。
元正天皇
実はこの元正天皇の遺言は、先の持統・元明天皇のように「続日本紀」の中には書き残されていない。遺言を残す直前に崩御されたのであろうか。ただ、記述された事実からして、この元正天皇も、同じように質素な葬儀を望んでおられたことが察せられる。
天平20年(748)夏4月21日、太上天皇(元正)が寝殿で崩御された。享年69歳であった。
4月28日、天皇(聖武)は勅して、天下のすべての人々に白の喪服を着させた。この日、太上天皇の遺骸を佐保山陵(さほやまのみささぎ)において火葬した。
6月5日、百官および諸国の人々に命じて喪服をぬがせた。
持統・元明両天皇のように葬儀に関する遺言がなかったので、甥にあたる聖武天皇は、簡素ながらも過去のしきたりに沿って、葬儀をとりおこなったのであろう。6月5日は、現在でいう四十九日の喪があけた日である。熱心な仏教徒であった聖武天皇は、「簡素といってもせめて四十九日までは」、と役人や人民にこの期間喪に服させたのであろう。
これを先例としたのであろうか。現在でも「四十九日」という仏教のしきたりは、我々日本人の日常で行われている。「続日本紀」には「七・七(しち・しち)」と表記されている。当時の中国や朝鮮では皇帝や国王の死に際しては1年以上の喪に服したというから、きわめて簡素な葬儀であったのは間違いない。
この元正天皇は、崩御される1年半ほど前に、次のような詔(みことのり)をされたと、「続日本紀」は記している。あるいはこれが、元正太上天皇の国民向けの遺言といえるかも知れない。
天平19年5月5日、この日、太上天皇(元正)は次のように詔した。
「昔、5月5日の節会(せちえ)には菖蒲(あやめ)を髪飾りとしていたが、近頃はその風習が行われなくなった。今後は菖蒲の飾りをつけないと宮中に入ってはならぬこととする」
いささか唐突で、わがままな詔の気がしないでもないが、弟文武天皇のひとつぶだね・首(おびと)皇子(のちの聖武天皇)を次の天皇にすべく、独身を通し35歳でさっそうと即位した、美貌の女性天皇らしい詔で、なんともほほえましく思える。
おしまいに、万葉集に記載されている3人の女性天皇の御製を紹介したい。
〇春過ぎて夏来るらし白妙(しろたえ)の 衣干(ころもほ)したり天(あめ)の香久山(持統天皇)
〇これやこの大和にしては我(あ)が恋ふる 紀路(きじ)にありといふ名に負ふ勢(せ)の山
(元明天皇・勢の山は、この歌をつくる1年前に亡くなった夫草壁皇子を重ねたものといわれる)
〇あしひきの山行きしかば山人(やまびと)の 我に得しめし山つとぞこれ (元正天皇)
(「山つ゛」とは、山で採れたみやげもの。花か紅葉か山の果実か、山の民のささやかな献上物)
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