社会人になって2・3年経った頃、私は月一回、武蔵野市にある亜細亜大学に通っていた。
高校時代の友人がどこかの大学院を出て、この大学の助手か講師をしていた。五島昇という東急グループの総帥がこの大学の理事長をされていて、個性ある一流の人物に話をしてもらい、大学生たちの精神の糧(かて)にさせたいとの親心で、月一回講演会が開かれていた。
ところが、大学生達はこういうものには興味がないらしい。席の3分の1ほどしか埋まらないので、五島理事長は怒ってしまった。
「講演をお願いした方々に申し訳ない。これでは俺の男が立たん。助教授以下の若手の職員は全員が参加せよ。その連中の友人にも声をかけて、ともかく大勢の人を集めて席を満席にせよ。この大学の卒業生でなくてもいっこうにかまわん」との檄が飛び、いわば「サクラ」として私にお鉢がまわってきたわけだ。
友人への義理で参加したのだが、行ってみるとすこぶる面白い。10人前後の方々の講演を聞いた。今東光と出光佐三の話は特に面白かったので、今でも鮮明に覚えている。
私がこの講演を聞いた1・2年後だと思う。「週刊プレーボーイ」の名編集長・島地勝彦氏は、最晩年の今東光に気に入られて、同誌に「今東光の極道辻説法」が連載された。この中にも、このテンプラ(ニセ)学生の話が出てくる。この話は、今東光和尚の「得意の一席」であったようだ。
40年以上も前に聞いた話なので、正確を期すために、この「極道辻説法」も今回参考にさせていただいた。
今東光のお父さん日本郵船の船長で、本人は少年期、横浜・小樽・函館・神戸などを転々としている。喧嘩に強い暴れ者で、関西学院中学を含め2つの旧制中学を退学になり、東京に出てきて画家になる勉強をするという名目で遊び呆けていた。
その頃、俺は東大のある本郷あたりのゴロでね。同棲していた女と喧嘩して、近くの西片町にある実家に帰ろうと思い、赤門の前の本郷通りを歩いていたんだ。
そうしたら向こうから下駄を鳴らしながら、まっさらの一高の帽子をかぶってこちらに歩いてくる野郎がいるんだ。そいつが俺のほうをじろじろ見るんだ。野郎、俺様にガンをつけやがって。なぐってやろうと思ったよ。だんだん近寄ってきて、そいつが、「東光さんじゃない?」と言うんだ。俺の弟と同級生の池田という男なんだ。あんまり出来の良くない。
「おまえ、いい道具を手に入れたな」
俺はそいつの着ている一高の制服と帽子を、道具だと思ったんだ。
「おまえ、そいつでコレをひっかけているんだろう?一高の奴らに捕まったらどつかれるぞ」
「阿呆なこと言ってくれるな。僕は本当の一高生だよ」
「おまえみたいな頭の悪い奴が、一高に入れるわけがないだろう」
「いや、僕は補欠で入ったんや」
参ったよ、俺、これには。こんな馬鹿な野郎が一高に入っているのに、俺は相変わらずだしな。
「おまえ、ほんまに一高生やったら、おまえのところに行ってみるぞ。何ていう寮にいるんだ?」
「北寮の何号室、、、」というから、翌日、俺、行ってみたんだ。
いたんだよ。そいつが。本当に。
「東光さん、文学好きなのが数人おるんや」と、同室の奴らを紹介するんや。
「これ、川端康成って、文学。これはだれ、あれはだれ」って。みんな文学好きなんで、もう池田などそっちのけで、大いに話が盛り上がってしまった。「今度みんなして、今ちゃんの家に遊びに行こうや」ということになったんだ。
川端を含めて一高生数人を連れて家に帰ったら、おふくろが喜んじゃってね。弟2人はまじめに勉強しているのに、長男の俺1人が退学を繰り返して喧嘩にあけくれているわけだろう。本物の一高生と友達になったので喜んでね。連中が家に遊びに来るたびに、ずいぶん御馳走するんだ。
おふくろは川端のことを特に気に入ったらしい。川端が孤児で、夏休み・冬休みに帰省する先がないことを知ると、「休み期間中はずっとうちに泊まれば良い」と言って、そうするのが川端が東大を卒業するまでのしきたりとなった。おふくろは年一回、俺たち3兄弟に新しい着物を縫っていたが、それからは川端の分も加わり、年4着の着物をつくっていた。
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