2019年12月2日月曜日

宗像大社(2)

このあこがれの筑前・宗像大社を参拝したのは、それからずいぶん年月を経た平成26年9月のことである。他の用事で大牟田市に行き、その帰りに福岡市に1泊した。

充分な時間がなく、私がお詣りしたのは宗像市田島(たしま)町の辺津宮(へつのみや)だけである。宗像三女神の三女・市杵嶋姫(いちきしまひめ)がここに祀られている。玄界灘の海上約12キロに浮かぶ筑前大島にある中津宮に二女・湍津姫(たぎつひめ)が祀られ、沖合60キロの沖ノ島にある沖津宮に長女・田心姫(たごりひめ)が祀られている。

しっかり者の長女・田心姫がただ一人で、日本列島の西北の絶海の孤島で、わが国を護っておられるのである。

神社の創祀(そうし)は不明といわれている。
沖ノ島の古代の祭祀遺跡から発見された約12万点にのぼる神宝・祭器類のすべてが、国宝・重文に指定されており、古いものは4世紀のものと学問的に証明されている。
4世紀は日本史の年表では古墳時代に分類される。初期の大和朝廷が大陸と交流するにおいて、この沖ノ島は交通の要所であり、同時に、対外交渉にかかわる重要な祭祀が行なわれていたことがわかる。

この孤島において4世紀に祭祀が行なわれていたのだから、数多くの人々が生活していた九州本土の辺津宮では、いつごろから祭祀が取り行われていたのであろうか。弥生時代より古く、縄文時代からと考えるのが自然ではあるまいか。

天照大神と素戔嗚命(すさのおのみこと)との誓約(うけい)によって生まれたといわれる、宗像三女神が祀られるはるか以前から、ひとびとを導き、ひとびとの幸せを祈った有徳の縄文人を、この地の人々は祀っていたのではあるまいか、と私は考えている。


それほどの古社である宗像大社には幾多の日本史の巨人たちが縁(えにし)を持っている。
ボランティアの案内の方の口から出たのは、弘法大師・空海と出光佐三の2人の名前だった。たまたま私が意識していた人の名前と一致したので、なんだか嬉しかった。

空海が入唐留学生(るがくしょう)として留学期間20年の予定で北九州を出帆したのは、延暦23年(804)である。遣唐大使が乗る第一船に空海が、第二船に期間1年予定の還学生(げんがくしょう)最澄が乗った。第三船と第四船は遭難し、唐に無事にたどり着いたのは第一船と第二船だけだった。

出帆の前、最澄は宇佐神宮に、空海はこの宗像大社に参拝し、それぞれ航海の安全を祈念している。最澄の入唐は和気清麻呂の息子二人の推薦であったというから、宇佐神宮との縁は理解できる。これに対して、空海がどのような縁で宗像大社に参拝したかはわからない。

20年の留学予定を2年余に短縮して帰国した空海は、この宗像の地に1年以上滞在し、宗像大社の神宮寺(じんぐうじ)である鎮国寺を建立している。国命にそむいて、20年分の留学費用を2年余で使い切った空海に対しておとがめがあったのか、そのあたりの都の情報を探るためだったのか、事情は定かではないが、それにしても1年以上の北九州滞在はずいぶん長い。

当時、裕福な神社は前途有望な留学僧に対して、スポンサー(パトロン)として巨額のお金を援助している。最澄は宇佐神宮から、空海は宗像大社から、莫大な量の砂金をもらって入唐した、とその方面の研究者は述べておられる。

宗像大神(むなかたのおおかみ)は住吉大神(すみえのおおかみ)とともに、初期の大和朝廷の大陸との交流を助けた航海の神である。この二つの大神は、神功皇后の三韓征伐のとき神助を与えたといわれている。これらの神を奉じる海人族(安曇族)が遠征軍の軍艦の艦長や航海長といった役割をになっていたのであろう。その後の白村江の戦い(天智天皇2年・663)においても、これら宗像大神・住吉大神の氏子たちが、その軍団の水先案内役をつとめたのに違いあるまい。

大化改新(645)により宗像郡が設置され、文武天皇2年(698)には宗像社が宗像郡全部を領するようになり、宗像氏は神職として神社に奉仕するとともに、郡司(ぐんじ)として政治も司(つかさど)るようになった。

天武天皇の妃(きさき)・尼子娘(あまこのいらめ)はこの宗像氏の出である。宗像徳善(とくぜん)の娘でその子供が高市(たけち)皇子である(天武天皇の第一皇子)。この高市皇子は、壬申の乱ではすぐれた判断力で父をおおいに助け、持統天皇の御世には太政大臣に任命されている。
ちなみに、奈良時代前期の政界の実力者・長屋王(ながやおう)は、この高市皇子の長男だから、宗像徳善のひ孫にあたる。


私の祖母は97歳で亡くなったが、その両親は四国・讃岐の人である。両親は結婚後、北九州の若松で生活した。残念なことに、母親は祖母が幼少のとき病死し、父親は再婚した。その再婚した相手の女性が宗像大社の流れをくむ人で、宗像という苗字の人だったと、最近になって93歳の私の母親から聞いた。

よって、私の義理の曾祖母は宗像の人である。私には宗像の血は流れていないものの、わずかではあるが宗像大社とご縁がある。そのことをとても嬉しく思っている。





















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