2020年1月6日月曜日

草薙剣(くさなぎのつるぎ)

熱田神宮の「おほほ祭り」の箇所で、草薙剣の盗難事件と、その後天智天皇がこれを取り上げて近江の御所に保管したことを述べた。

ただ、この話はもっともらしいのだが、前半の盗難事件を事実と考えるには無理がある。いくつかの事象を一つ一つ検証していくと、これが作り話であることがわかる。
この話は、「日本書紀」・「熱田太神宮縁記」・「古語捨遺」(大同2年・807)などに記載されている短い記述を集め、皇室にも熱田神宮にも傷がつかないように、後世の人が作りあげた玉虫色のものがたり、と考えるのが適切だと思う。

推測するに、真相は、
天智天皇が中臣(藤原)鎌足の進言に同意し、信頼する僧・道行(どうぎょう)を勅使(ちょくし)として派遣して、熱田神宮に対して草薙剣を朝廷に差し出すよう命じた、のではあるまいかと私は考えている。

次のような理由による。

1、僧・道行という人物
この道行という僧は新羅の皇族の出身らしいが、わけあって若いころ日本に亡命し長く日本で生活している。天智天皇の病気を祈祷で平癒させたり、また天智天皇の援助により法海寺(ほうかいじ)を含めていくつもの寺を建立した等の伝承がある。中臣鎌足と同じく天智天皇が信頼する側近と考えるのが妥当だと思う。

熱田神宮に清雪門(せいせつもん)という門がある。
私も熱田神宮参拝のおりに見学したが、この門は「開かずの門」ともいわれ、現在でも閉じられたままである。「新羅僧・道行が草薙剣を盗みこの門を通って逃げていった」との言い伝えが熱田神宮に残っており、以来1300年以上もこの門は閉じられたままだという。

少し考えれば分かることだが、この話は奇妙である。
僧が宝剣を持ってこの門を出ていく姿を、熱田神宮の人たちは見ていたことになる。一介の僧の盗みであれば、これを見た神官たちが取り押さえればよいだけの話だ。だまってこれを見送ったという事実は、この僧の背後に強い権力があったと考えるのが自然ではあるまいか。

2、当時の東アジアの政治状況
この草薙剣が盗まれたという天智天皇7年(668)は、700年間続いた高句麗が唐・新羅の連合軍によって滅ぼされたその年でもある。その5年前、天智2年の白村江の戦いで日本・百済遺民の連合軍が唐・新羅の連合軍に大敗北したことが、半島における高句麗の立場を弱体化させた。

すなわち、このとき新羅は国威隆々としており、むしろしょんぼりしていたのは天智天皇を頭にいただく日本の人びとであった。「新羅が日本の国威増強の源となっている草薙剣を欲しがった」という考えにはまったく同調できない。この話は、それ以降の日本人が作ったものがたりである。

天智天皇と中臣鎌足の二人はしょんぼりとはしていなかった。
大変な緊張感を持って、天皇を中心とした律令国家の建設に全力投入していた。

まずは火の粉を払わねばならない。
十中八九、唐・新羅の連合軍が日本に攻めてくると予測して、これに備えた。九州北部に防人(さきもり)を配備し、北九州から瀬戸内海・大和にかけていくつもの朝鮮式の山城を築造した。各地に峰火台(ほうかだい)を置き、敵の侵入時にはかがり火や煙で交信すべく準備した。そして都を飛鳥から近江の大津に移した。もし敵が攻め寄せてきたら琵琶湖の水路を北上して若狭方面、もしくは美濃・尾張方面に脱出するためであったといわれている。

結果的には、その後、唐と新羅の両国が争ったため、日本への侵攻はなかった。

白村江での大敗、高句麗の滅亡に肝(きも)を冷やした天智天皇と中臣鎌足は、国家の危機を感じ、急いで中央集権化と律令制度を整備し、国家を強くせねばならないと考えた。そのためには、単に文書による「律・りつ」(刑法)、「令・りょう」(行政法)の制定だけでは現実的な行政は機能しない。地方豪族の勢力を削ぎ天皇の威信を高めなければならない。

このような考えのもとで、熱田神宮に対して草薙剣を差し出すよう命じたのではあるまいか。
















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