3、天智天皇と中臣鎌足の心の内(うち)
天智天皇は次のように考えておられたのではあるまいか。
そもそも草薙剣が熱田神宮にあること自体がおかしい。皇室もしくは伊勢神宮に返還されなければならない。
元をただせば素戔嗚命(すさのおのみこと)がヤマタノオロチを退治して取り上げた剣であり、姉の天照大神(あまてらすおおみかみ)に献上された皇室の至宝である。以来、皇居において八咫鏡(やたのかがみ)・八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)と共に三種の神器の一つとして大切に保管されてきた。
第十代崇神(すじん)天皇の6年、疫病を鎮(しず)めるべく、天照大神の神霊を皇居の外、大和国・
笠縫邑(かさぬいむら)に移した。その時、鏡と剣の本体は天照大神の神霊のもとに置き、皇居には勾玉の本体と新たに鋳造した鏡と剣を保管した。
第十一代垂仁(すいにん)天皇の御代になり、天照大神の神霊が、「ここで祭られるのはいやだ。どこかもっと良い場所に移してほしい」と言われ、皇女倭姫(やまとひめ)が、美濃から伊勢方面で鎮座にふさわしい場所を求めて旅をされた。「ここが気に入った」と神霊が言われた場所が伊勢神宮であり、ここに鏡と剣の本体が祀られた。
第十二代景行天皇の皇子・日本武尊(やまとたけるのみこと)が九州の熊襲(くまそ)を平定したすぐあと、天皇は武尊に東国平定を命じた。その途中、伊勢神宮に立ち寄った日本武尊は叔母の倭姫に不平を言ったらしい。
「叔母上、父は私を疎ましく思っているのでしょうか。死ぬように仕向けているようにみえます」
「そんなことはないです。お父様はあなたを頼りにされています。東国で危険な目に遭ってもこの剣を持っていれば大丈夫ですよ」と叔母の倭姫はやさしく甥をさとし、草薙剣と火打石を渡した。
東国を平定したあと日本武尊は、妃(きさき)である宮簀姫(みやすひめ)のもとを訪れ、尾張ですごされた。この姫は尾張国造の娘で、尊の東征のおり副将軍として活躍した建稲種(たけいなたね)の妹である。伊吹山の賊を退治に出かける時、尊は草薙剣を宮簀姫のもとに置き、これを持たないで出かけた。賊を征伐したあと、日本武尊は伊勢の能褒野(のぼの)において病没された。
もともと、草薙剣は皇室の至宝であり、日本武尊の東征の時、一時的にこれを貸し与えたもにである。皇室に返却されるのが当然である。
天智天皇のこの考えは、まったく正しいと思う。
この草薙剣は、妃である宮簀姫が「夫の形見です」と言って、実家に保存できるような代物ではないのだ。これは決して宮簀姫の実家の尾張氏や熱田神宮を軽視して言っているのではない。むしろその逆である。この事実からして、当時尾張氏がいかに強大な実力を持っていたかがわかる。
もし尾張氏が反逆すれば大和朝廷は崩壊するかもしれない、それほどの勢力を持っていたのだと私は考えている。よって、この時、大和朝廷は尾張氏に対して、草薙剣の返還を強く迫ることができなかったのではあるまいか。
さて次に、中臣鎌足の心の内をのぞいてみたい。
「おほほ祭り」の箇所で、次のように述べた。
「私のまったくの推測であるが、鹿島神宮の出であり、当時律令制度を導入して中央集権国家を建設しかけていた側近の中臣鎌足が、熱田神宮に嫉妬して草薙剣を取り上げるよう、天智天皇に進言したのかも知れない」
これに対して、鎌足は次のように答えるかもしれない。
私はそんなケチな嫉妬心で天智天皇様に進言したのではありません。たしかに私の実家の鹿島神宮は東国に鎮座する古い大社です。ご先祖の武甕槌(たけみかつ¨ち)神は天照大神の命を受けて出雲に出向き、大国主命とその息子の建御名方(たけみなかた)神を相手に、大活躍をして国譲りを実現させました。熱田神宮(尾張氏)にくらべても負けないほど大和朝廷の成立に貢献しました。
でも、これからは文明開化の世の中です。
地方豪族が先祖のかつての武功を誇り、大和朝廷の中央集権政策に水をさすようなわがままを許してはいけないのです。一刻も早く、天皇を中心とする律令国家を建設して有能な官僚を育成して、この国を豊かに強くしなければなりません。もたもたしていると、唐や新羅に攻め込まれます。
そのためには、熱田神宮が皇室の至宝を抱えているのを放置するのは問題があります。これを取り上げることが、他の豪族に対してのけじめとなり、皇室の威信を高めることになります。すなわち、これから行おうとする国家運営に好影響を与えるのです。
中臣鎌足は、このように考えていたのではないか、と想像する。.
なるほど、面白いですね。自分は日本史に弱く、勉強になります。村山純
返信削除ありがとうございます!
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