2020年5月28日木曜日

昭和万葉集(3)

ー海に漂うー

〇ゆく先を 聞かさるるなく乗船す 南方とのみ我らは知りて
  堀内雄平  明治44-

〇積み込みし 冬菜の中ゆこほろぎの 今宵鳴きいつ¨南行く汽船(ふね)
  若月高一  明治42-

〇敵潜の 魚雷は船底を過ぎしという 船長の言葉に歓声あがる
  山本沙羅 大正11-

ー望郷ー

〇敵機飛ぶ 下に馬鈴薯を掘るといふ 妻の手紙は身より離さず
  佐藤豊太郎  明治43-

〇ふるさとの 秋としるして野の花を 送れ来(きた)れり愛(かな)しきかなや
  駒田信二 大正3-

〇わびしげに 誤字などまじるふみ見れば ふるさとの母は老いたまひけり
  瀬川保 大正8-

ー雛に幾年ー

〇盛り分けし 椀(わん)一杯の芋がゆを 疎開の子らは拝(をろが)みて食(は)む
  浜中ふじの 昭和3-  (学童疎開)

〇疎開せし 子を訪ね寺に来(こ)し 母等稲刈るわれに礼してすぎぬ
  滝川重人 明治42- 

〇五年生 山田茂と言ひし児は 母の写真に声かけて寝(い)ぬ
  野沢学人 明治43-

〇診察の 謝礼にもらひし鶏卵を 朝がれひのとき十右衛門と食ふ
  斎藤茂吉 明治15-昭和28

〇ブエノスアイレスより転校せし子が嬉しげに アルゼンチンの中立をいふ
  小田武雄 明治39-

ー戦争への疑問ー

〇豆まきと いへど豆なき家の内 福は来らず鬼は追はれず
  永井荷風  明治12-昭和34

ー農村の日々ー

〇供出の 米出し終へし広土間に 甘藷餅(いももち)つきて新年迎ふ  
  小坂新一

〇釜磨ぎて 稲刈りにゆく朝の道 腰のむすびのほくほくと温(ぬく)し
  川村八郎 大正9-昭和31












2020年5月25日月曜日

昭和万葉集(2)

ー戦場へー

〇召されたつ日の近つ¨くをかぞえへつつ 貯蓄は母の名にきりかへぬ
  辻村忠勝

〇仏前に令状供(れいじょうそな)へ今日はまだ 今日のつとめの田草(たぐさ)取りに出ぬ
  篠原杜子城  大正1-

〇さがし物ありと誘(いざな)ひ夜の蔵(くら)に 明日往く夫は吾を抱きしむ
  成島やす子 大正8-

〇明日応召の友をし訪(と)へばねむごろに 温床苗代(おんしょうなわしろ)の手入れしてゐぬ
  吹田晋平 明治35-

〇明日出で征(ゆ)く 湯屋の息子が会釈して 下足の札(ふだ)を渡して呉れぬ
  駒 敏郎 大正14-

〇神宮競技場 ここ聖域にして送らるる 学徒幾万に雨ふり注ぐ
〇いのちながらえて 還(かえ)るうつつは想はねど 民法総則といふを求めぬ
  吉野昌夫  大正11-

〇つれだちて 門出つ¨る時期せずして 皆仰ぎたり母校の校舎
  畔上知時 (上智大学)

〇きみが手に 成りし高菜は採り惜しみ 五月の畑(はた)に花咲かせたり
  石川まき子 明治43-

〇地に伏して ただに祈らむ生還を 母のこころとくみ給へかし
  平林英子 明治35-

〇戦線に たより絶えたる弟の 歳をもかぞえ豆撒きにけり
  大野信貞 明治42-

ー兵の周辺ー

〇幾日(いくひ)へず 出でたつ兵をねぎらふに 白き豆腐をもとめ得しかも
  猪木とみ 明治16-昭和43 (民家宿営)

〇南海の 真夏の海に死せし子よ いまうつし世は初雪の降る
  島田敏子 明治35- (戦死公報) 

〇戦死せる 弟の日記に食べたきもの観たきもの 読みたきものありて泣かしむ
  岩波香代子 大正1-

ー戦いの歌ー

〇決死隊 志願の兵にくさむらの 穂草(ほぐさ)を切りて籤(くじ)を引かしむ
  山田雅之  明治40-

〇傷負いし 捕虜にメンタム塗りやれば 顔笑みにけり夏の木のかげ
  中川紫川  (大陸戦線)

〇休息と 声はかかれど雨を避くる すべもなければぬかるみに座す
  山下弘雄  大正8-







 




 


 

2020年5月19日火曜日

昭和万葉集(1)

ー12月8日ー

〇人間の常識を超え 学識を超えておこれり 日本世界と戦う
 南原繁 明治22-昭和49 (東大教授)

〇開戦の電報持ちし指揮官の 手がこころもちふるへてゐたり
 柳川貞光 大正6-  (海軍にて)

〇今はしも東京の沖を航過(すぎ)むとす 心をただして左舷に向ふ
 佐藤完一  -昭和17 (空母搭乗員)

〇特殊潜航艇といふあたらしき艦(ふね)の名が 耳朶(じだ)に余韻を残す
 志津文雄  (アララギ)

〇いざゆかむ 網も機雷も乗り越えて 撃ちて真珠の玉と砕けむ
 古野繁実 大正7-昭和16年12月8日 (海兵67期)


ー銃後の国民生活ー

〇旅を行く吾に賜(た)びたる白き飯 憚(はばか)りつつも汽車中に食(を)す
 大野広高 明治35-

〇晴衣二枚と替えたるいもは宝なり 麦とかゆにしていく日つながむ
 高木せつ 大正3-

〇干し上げて一升ほどの豌豆を たからの如く妻の貯(たくわ)ふ
 松下仙次

〇煎りをえし わつ¨かの豆を子供多き 隣の家に妻分けに行く
 桜井平喜

〇病人に配給ありしいささかの 蜂蜜なれば惜しみつつ食ふ
 霜井清子

〇たまさかに配給の肉は子らに分け 妻と煮こみの野菜のみ食ふ
 佐沢波弦 明治22-

〇一本に残りし大根我が番まで 売れずにあれと願ひつつ待つ
 吉田佳子 大正11-

〇召されたる夫(つま)の使ひし鶴嘴(つるはし)に馴れて石炭掘(すみほ)る女抗夫われは
 下田綾女

〇釣鐘は国に捧げて楼門(ろうもん)の 百日紅(ひゃくじつこう)はくれなゐ燃ゆる
 平井庫夫

〇みいくさに明日は捧げむ梵鐘(ぼんしょう)を 僧はひそかにうちならしをり
 高木美佐子

〇寺々ゆ 召されてをゆく梵鐘の ここの駅にも四つ並べり
 原君代  大正1-

〇しろがねも黄金(くがね)も家にのこさめや 子らはもとより国にささげつ
 土岐善麿 明治18-

〇特攻隊に続くとあへて深夜業 希(ねが)ひ来にけり生徒(こ)ら十二名
 永石三男 明治37-昭和33

〇挺身隊(ていしんたい)の女学生三人片隅に 活字ケースを暗記してをり
 青木辰雄 明治42-










 

昭和万葉集について

コロナ禍のおかげで、このニヶ月間珍しい体験ができた。

本業は暇である。お客様や仲間との飲み会はない。二つのヨットレースも中止になった。田舎の農園での農作業も、「帰るな、帰るな、東京からコロナを持って帰られたらたまらん」と地元の友人たちからは嫌われてしまった。

こうなると、自宅での読書以外にはやることがない。
今まで気になっていたが丁寧に読んでいない本を、書棚から取り出して読んでみた。
その一つが「昭和万葉集」である。本物の「万葉集」も少しだけ読んでみた。

「万葉集」はご存じのとおり、奈良時代末期にできた「現存する最古の和歌集」で、天皇・皇后・貴族から下級役人・防人・農民など、さまざまな身分の男女の歌4,500首が収められている。

中学か高校の頃、「あをによし 奈良の都は咲く花の 匂ふがごとき今盛りなり」という歌を教わった。この時奈良時代とは、はつらつとした希望に満ちた良い時代だったのだなあ、と思った。
東大寺建立の際には、中国人やインド人の僧も参列して異国の音楽が演奏されたと聞き、国際色豊かでみんなが生き生きと生活していたのだと思っていた。

ところがその後、「続日本紀」を読んでみて、奈良時代が栄光と同時に、天然痘の流行やたび重なる地震で、日本人がとてつもない困難の中で生きていた時代だったと知った。

先ほどの歌は、小野老(おのの・おゆ)という大宰府の役人が、都をなつかしんで、心の中の奈良の都を美化して詠ったもののようだ。天然痘の流行では、当時戸籍に載っていた日本人の三分の一の150万人が亡くなった。この時の太政官の大臣クラスだった、藤原不比等の4人の息子全員がこの天然痘で亡くなっている。

奈良時代とは、広義では、「710(和銅3年)に元明天皇が平城京に遷都してから794(延暦13年)に桓武天皇が平安京に遷都するまでの84年間」、狭義では、「784(延暦3年)に桓武天皇が長岡京に都を移すまでの74年間」といわれる。


64年続いた昭和の時代より、ほんの少し長いだけである。
この昭和の時代も、奈良時代と同じく、栄光と困難の両方を国民が味わった時代である。

「昭和万葉集」は昭和54年から翌年にかけて、全20巻で講談社から出版された。激動の昭和の人々の「心」を後世に伝えたいとの意図があったのだろう。土屋文明・土岐善麿などの大物歌人が編集顧問になり、万葉集と同じく天皇・皇后以下あらゆる階層の日本人の歌8万2千首が収められている。

全部を丁寧に味わうには、コロナの2ヶ月の外出自粛期間ではむずかしい。ざっと目を通し、日本国民が塗炭の苦しみに遭遇した昭和16年から22年までを収めた、第六巻、第七巻の中に心打たれる歌が多いと感じた。

当時の方々の「心」を少しでも理解したいと思い、その中から約300首を選び、一冊のノートに丁寧に写してみた。三分の一ほどをこのブログでご紹介したい。


















2020年5月7日木曜日

広島医専・20年8月5日の開校式

ヘッドハンターを長くやっていると、珍しい話を聞くことがある。
これもその一つだ。30年ほど前に聞いた不思議な話である。

当時は外資系金融会社が若い人を大量に採用していた。よって、ご紹介するのは20代・30代の方が多かった。たまたま偶然に、54歳の男性の経理部長を、ある会社に紹介することができた。喜ばれたその方は、私の実力を過大評価したらしい。

「私の先輩で64歳の大物の経理部長がおられます」と紹介してくださった。近頃では60歳を超える転職希望者ともお会いするが、当時は珍しかった。手書きの履歴書を持参されたその方は、立派な紳士である。私の力不足で、この方を次の会社に紹介することはできなかったのだが、温厚な人柄と興味深い話に引き込まれて、この方と3時間以上も話し込んでしまった。

履歴書には次のようにあった。

昭和2年      岡山県生まれ
昭和20年3月   岡山一中(旧制)卒業
   20年8月5日 広島医学専門学校入学
   21年10月   同校退学
   23年4月    東京の名門私大予科入学
   28年3月    同大学経済学部卒業
   28年4月    某名門企業入社
平成3年        同社定年退職


私の父より1歳お若い。旧制・岡山一中は県下トップの名門校である。
「本当は岡山医大に行きたかったのですが、自分の成績では無理でした。当時軍医が不足していて、広島医専という軍医さんを育成する学校が新しくできると聞き、受験したら合格しました」とおっしゃる。この学校が現在の広島大学医学部の母体だそうだ。

昭和20年8月5日広島医専入学、という箇所がとても気にかかる。原爆投下の前日ではないか。私が不思議そうな顔をしていたら、その方は次のように話してくださった。


4月に入学式があると思っていたのですが、学舎や寮ができてなく、開校式は8月5日になる、と学校側から連絡がありました。当時B29が焼夷弾を落としていましたが、それでも山陽本線は動いていました。岡山から広島までは各駅停車で3時間ほどです。

8月4日の晩は広島の親戚の家に泊めてもらいました。当時「チッキ」といいましたが、布団や少量の本などを布団袋につめて、広島駅留めにして送りました。学校からは翌日これを寮に運ぶと聞いていました。

学生は全員で60人、開校式は8月5日の午前10時に始まり、あわただしく30分ほどで終わりました。式が終わると、校長先生が、「これからすぐに疎開する」とおっしゃいます。私たちの頭には広島駅留めにしてある布団袋のことがあり、あれを早く寮に運ばなくてはと思っていました。疎開は明日でもよいのでは、と私は思いました。

先生方の中にも、そう主張する人がいましたが、「いや駄目だ。これからすぐ疎開する」とおっしゃる。

手際のよいことに、校長先生は学生60人分と教授や職員の切符を用意されていました。すぐに全員で広島駅に移動して、疎開先の広島県高田郡小田村という山村に向かいました。三次市の手前で、広島から汽車で1時間ほどの場所です。

驚いたのは、広島駅に着いたら、我々が乗る列車に全員の布団袋がすでに積み込んであったことです。疎開地の駅に着いて、その布団袋を各人が背負い、村の二軒のお寺に分散して泊まりました。翌日の朝、広島に原爆が落ちました。広島医専の校舎・寮・附属病院は全焼全壊したので、我々は当分そのお寺にとどまりました。8月8日にお寺で第一回の始業式を行ない、すぐに授業が開始されました。

校長先生は8月6日の原爆投下を知っておられたのか?私は不思議な気がしましたが、当時そのようなことを聞くのは不謹慎な気がしたので、なにも聞きませんでした。ほかの学生たちも同じような気持ちだったと思います。

校長先生は戦争が終わったあとも、このことについて何も触れられず、我々もたずねませんでした。一つだけ私の記憶の中に印象深く残っているのは、一緒に疎開した校長先生の奥様がドイツ人だったことです。ユダヤ系ドイツ人女性だと聞きました。

64歳のその方は、そう締めくくられた。


今回気になって、ネットで、「広島医専・初代校長」で検索してみたら、この校長先生は林道倫(はやし・みちとも)という名前の方だとわかった。

1885年-1973年(88歳で没) 宮城県出身の人。東京帝大医学部では斉藤茂吉と同級生。二度にわたりドイツに留学。46歳のときドイツ人女性と国際結婚。広島医専校長の後、戦後、新制岡山大学の初代学長、と年表にある。