ヘッドハンターを長くやっていると、珍しい話を聞くことがある。
これもその一つだ。30年ほど前に聞いた不思議な話である。
当時は外資系金融会社が若い人を大量に採用していた。よって、ご紹介するのは20代・30代の方が多かった。たまたま偶然に、54歳の男性の経理部長を、ある会社に紹介することができた。喜ばれたその方は、私の実力を過大評価したらしい。
「私の先輩で64歳の大物の経理部長がおられます」と紹介してくださった。近頃では60歳を超える転職希望者ともお会いするが、当時は珍しかった。手書きの履歴書を持参されたその方は、立派な紳士である。私の力不足で、この方を次の会社に紹介することはできなかったのだが、温厚な人柄と興味深い話に引き込まれて、この方と3時間以上も話し込んでしまった。
履歴書には次のようにあった。
昭和2年 岡山県生まれ
昭和20年3月 岡山一中(旧制)卒業
20年8月5日 広島医学専門学校入学
21年10月 同校退学
23年4月 東京の名門私大予科入学
28年3月 同大学経済学部卒業
28年4月 某名門企業入社
平成3年 同社定年退職
私の父より1歳お若い。旧制・岡山一中は県下トップの名門校である。
「本当は岡山医大に行きたかったのですが、自分の成績では無理でした。当時軍医が不足していて、広島医専という軍医さんを育成する学校が新しくできると聞き、受験したら合格しました」とおっしゃる。この学校が現在の広島大学医学部の母体だそうだ。
昭和20年8月5日広島医専入学、という箇所がとても気にかかる。原爆投下の前日ではないか。私が不思議そうな顔をしていたら、その方は次のように話してくださった。
4月に入学式があると思っていたのですが、学舎や寮ができてなく、開校式は8月5日になる、と学校側から連絡がありました。当時B29が焼夷弾を落としていましたが、それでも山陽本線は動いていました。岡山から広島までは各駅停車で3時間ほどです。
8月4日の晩は広島の親戚の家に泊めてもらいました。当時「チッキ」といいましたが、布団や少量の本などを布団袋につめて、広島駅留めにして送りました。学校からは翌日これを寮に運ぶと聞いていました。
学生は全員で60人、開校式は8月5日の午前10時に始まり、あわただしく30分ほどで終わりました。式が終わると、校長先生が、「これからすぐに疎開する」とおっしゃいます。私たちの頭には広島駅留めにしてある布団袋のことがあり、あれを早く寮に運ばなくてはと思っていました。疎開は明日でもよいのでは、と私は思いました。
先生方の中にも、そう主張する人がいましたが、「いや駄目だ。これからすぐ疎開する」とおっしゃる。
手際のよいことに、校長先生は学生60人分と教授や職員の切符を用意されていました。すぐに全員で広島駅に移動して、疎開先の広島県高田郡小田村という山村に向かいました。三次市の手前で、広島から汽車で1時間ほどの場所です。
驚いたのは、広島駅に着いたら、我々が乗る列車に全員の布団袋がすでに積み込んであったことです。疎開地の駅に着いて、その布団袋を各人が背負い、村の二軒のお寺に分散して泊まりました。翌日の朝、広島に原爆が落ちました。広島医専の校舎・寮・附属病院は全焼全壊したので、我々は当分そのお寺にとどまりました。8月8日にお寺で第一回の始業式を行ない、すぐに授業が開始されました。
校長先生は8月6日の原爆投下を知っておられたのか?私は不思議な気がしましたが、当時そのようなことを聞くのは不謹慎な気がしたので、なにも聞きませんでした。ほかの学生たちも同じような気持ちだったと思います。
校長先生は戦争が終わったあとも、このことについて何も触れられず、我々もたずねませんでした。一つだけ私の記憶の中に印象深く残っているのは、一緒に疎開した校長先生の奥様がドイツ人だったことです。ユダヤ系ドイツ人女性だと聞きました。
64歳のその方は、そう締めくくられた。
今回気になって、ネットで、「広島医専・初代校長」で検索してみたら、この校長先生は林道倫(はやし・みちとも)という名前の方だとわかった。
1885年-1973年(88歳で没) 宮城県出身の人。東京帝大医学部では斉藤茂吉と同級生。二度にわたりドイツに留学。46歳のときドイツ人女性と国際結婚。広島医専校長の後、戦後、新制岡山大学の初代学長、と年表にある。
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