昭和天皇と鈴木貫太郎(7)
6月1日、二人の東大教授が内大臣の木戸幸一を、彼の仮住まいに訪ねた。木戸は空襲で自宅を焼かれていた。
内大臣とは藤原鎌足以来の官職で、いわばただ一人の天皇への助言者である。内閣総理大臣を決める際にもこの内大臣が推挙するわけだから、見方によっては最高権力者といえる。
二人の東大教授とは、東大法学部長・南原繁と法学部教授の高木八尺(やさか)である。二人とも第一高等学校では新渡戸稲造と内村鑑三の指導を受けた。二人の経歴と木戸との関係を述べる。三人とも56歳だ。
南原が東大法学部長に就任したのは今年の3月である。香川県生まれで一高・東大を卒業して内務省に入省した。若い頃、中村春二が創立した成蹊学園を助け、子供たちと共に成蹊の寄宿舎に寝泊まりして指導していたこともある。内務省を辞めて東大法学部の助教授になったのは32歳の時だ。現在内務大臣をしている安倍源基は、内務省時代の部下である。
高木八尺は東京の生まれだ。四谷の学習院に学び、木戸幸一とは同級生だった。もっとも木戸は中耳炎を患い休学して、高木の弟と同級生になった。彼らは子供のころからの遊び仲間である。高木はわんぱく者で勉強も良く出来た。子供の頃は木戸は高木に頭があがらなかった。高木は勉強ができたので第一高等学校に学び、その後東京帝大法学部に進んだ。かたや木戸は、学習院高等科から京都帝大に進む。東大に行けなかったのか、それとも学習院の同級生の多くが東大に行ったのでその後輩になるのが嫌だったのか、それはわからない。
二人は少年時代の遊び仲間である。高木は日本のために良かれと思い、激しい言葉で木戸に説教したのではあるまいか。「お前、そんなことで内大臣が務まるのか。このままでは皇室は危ういぞ!」ぐらいの迫力で、木戸に迫った可能性がある。
南原と高木、二人の東大教授が木戸に強く語ったのは次の点である。
1、政治家や外交官、大新聞の政治部長たちの多くがソ連に和平の仲介を求めるべし、と語っているがこれは危険である。アメリカに直接申し入れるべきである。
2、皇室が国民のこれ以上の戦禍を救うという態度をはっきりとることが、なによりも肝要である。沖縄の戦いが終わったあと、陛下が和平を説かれることが時局収拾のためのただ一つの方策である。本土決戦を行ない多数の非戦闘員が殺されれば、国民の陛下に対する恨みが噴出するであろう。皇室は国民と直結することで、日本復興の源泉とならなければならない。このままでは国体の護持が、外部圧力ではなく日本の内部から崩れる恐れがある。天皇陛下はなにをされているのだ、という国民の声なき声がある。
3、決断を先延ばしにして本土決戦をやることになれば、親日派のグルーやドーマンは役に立たないと思われ、国務省を追われるかもしれない。そうなれば皇室の追放を説く強硬派が国務省を牛耳ることになる。アメリカ国務省が、グルーやドーマンらの親日派で占められている今こそ、日本は戦争終結を急がねばならない。あるいはこの先一ヶ月を待たず、ワシントンがわずかな譲歩、しかし日本にとっては重大な譲歩を明らかにするかも知れない。だが、こちらが準備をしておかないと、その機会を取り逃がす。
この二人の東大教授の進言を、木戸が天皇に伝えたのは6月9日である。
南原繁 |