2021年8月9日月曜日

(6)三分の侠気

 「友に交わるにすべからく三分の侠気を帯ぶべし。人となるに一点の素心を存するを要す」と「菜根譚」に言う。石坂泰三翁は、しばしばこのことを述べておられる。

この「侠気」である。辞書を引くと「おとこぎ」とあるが、男性にかぎった話ではない。自己犠牲の精神ともいえる。自分が損をしてでも、公共のため、正義のため、他人のために、あえて貧乏クジを引くという心意気である。

この気持ちがある人が成功している。そんなに多くなくても良い。いくぶんかの侠気がある人は良い。人間というものは、基本的には自分の利益になることばかりを考えている動物である。「種の保存」という点から考えると、当たり前のことであり、決して悪いことではない。

お金がもっと欲しい。高い地位・権力が欲しい。健康・長寿でありたい。異性にもてたい。賞賛の言葉・名誉が欲しい。人間はだれもがそう思いながら生きている。それで良いのだと思う。私自身まったくその通りの人間である。

そうはいうものの、人間だれしも多かれ少なかれ、この「侠気」の精神を持っているように思える。ゼロの人はいない気がする。0.1パーセントから5パーセントぐらいの開きで、だれもがこの精神を持っていると思う。0.1パーセントの人を見て、あの人は自己中心だ、自分勝手な小物だと世間は言う。5パーセントの人を見て、器量のある人だ、大物だと人々は言う。

思うにこの侠気が5パーセントその人物の中に存在すると、その部分が真空になり、人々はそこに吸い寄せられていくのではなかろうか。


「菜根譚」のいう三分とは、3パーセントではなく30パーセントの意味らしい。

西郷隆盛という人は、もしかしたら本当に、この「三分の侠気」を持っていた人なのかも知れない。それゆえに、幕末から西南戦争に至る戦乱の中で、幾多の英傑がこの人を慕って喜んで死んでいったのであろう。子分千人が親分のためには命がけで突進したという、清水次郎長こと山本長五郎という人も、三分の侠気、のあった人に違いない。

われわれ凡人のとうてい真似できる領域ではない。5パーセントを目指せば良い。それだけの自己犠牲の精神を持っていれば、成功すると思う。

ただ、この「侠気」というものは、他の資質に比べて後日の努力で身につくものではなく、持って生まれた先天的なもののような気がする。

そうでなくとも、幼少の頃、祖父や父親もしくは周辺の人の中にこの「侠」の気質の人がいた場合、自然に身につくもののような気がする。成人したあと、自分の努力では身につきにくい資質のように思える。






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