ニーチェはしばしば「別れの時」という言葉を使った。彼の超人は一面からいえば幾度か「別れの時」を経過しきたれる孤独寂寥(こどくせきりょう)の人である。私はツァラトゥストラを読むごとに、この「別れの時」という言葉の含蓄にうたれる。
ニーチェ自身もまた「別れの時」を重ねたる悲しき経験を有し、「別れの時」の悲哀と憂愁と温柔と縹渺(ひょうびょう)とに対する微細なる感覚を持っていたに違いない。
概括(がいかつ)せる断言は私のはばかるところであるが、私の心臓(こころ)の囁(ささや)くところを、何らかの論理的反省なしに発言することを許されるならば、「別れの時」の感情はあらゆる真正の進歩と革命とに欠くべからざる主観的反映の一面である。
あらゆる革命と進歩とに深沈の趣を与えて、その真実を立証する唯一の標識である。「別れの時」の悲哀を伴わざる革命と進歩は、虚為か誇張である。
進む者は別れねばならぬ。しかも人が自ら進まんがために別離を告ぐるを要するところは=自らの後に棄て去るを要するところは=かつて自分にとって生命のごとく貴く、恋人のごとくなつかしかったものでなければならぬ。
およそ進歩はただ別るるをあえてし、棄て去るをあえてする点においてのみ可能である。かつて貴く、なつかしかったものに別離を告ぐるにあらざれば、新たに貴く、なつかしきものを享受することはできない。
新たに生命をつかむ者は、過去の生命を殺さねばならぬ。真正(しんせい)に進化する者にどうして「別れの時」の悲哀なきを得よう。
思えばかくのごとくにして、進化する人間の運命は悲し。
阿部次郎の「三太郎の日記」の一節です。
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