2021年10月25日月曜日

腕白時代の夏目君(3)

 夏目君とは日曜日はもちろん、平日もしばしば互いに往来(ゆきき)して遊び戯れた。当時の余の邸宅は二百年も住みなれた牛込区高良(こうら)町で、夏目君の邸は町名はちょっと忘れたが、柳町を過ぎ、根来(ねごろ)を経て、早稲田に至る十丁ばかり手前の、左側の家と覚ゆる。なにぶん四十年ばかり昔のことなので町名を思い出せない。

夏目君の家は余の家より一層淋しき田舎なりしため、余は四度に一度位しか遊びに行かなかった。多くは学校の帰途、夏目君が余の家に来てあそぶことが多かった。


夏目君の家と余の家とは共に幕臣にて、両親は相互にその名を知りたるが、相識の間柄ではなかった。その時分の子供の荒々しき風も加わりて、余と夏目君と喧嘩することもあった。当時余の伯父に、今は故人となったが、いたずらなる人があった。余の夏目君と親しくせるを知りて、ある時こんなことを余に話した。

夏目の祖先は、甲斐の信玄の有力なる旗本であったが、信玄の重臣某が、徳川家に内通せし時、共にあずかって徳川の家臣となったのだ。又余の家も信玄の旗本にて、勝頼天目山(てんもくざん)に生害せられし後、徳川家に降りて家臣になった。重臣の謀反さえなければ、武田家の運命も今少しは続きならんと、真か偽か、余が耳には親友の祖先に関することで、極めて異様に感じた。

しかし当分は質(ただ)すも気の毒で、夏目君にはなんにもこの事に就きて言わなかった。あるとき大喧嘩をはじめ、口論も尽きて腕力に訴えんとせし時、手近かなこの事実を語りて嘲(あざ)けった。夏目君はにわかに色を変えて引き別れ、逃ぐるが如く立ち去ったことがある。その後も再び仲直りして常の如く遊しが、喧嘩の場合、この事が同君をへこますに有効であったから、その後も折々この策を応用した。

今更思えば子供心とはいえ、余のおこないの卑劣なりしを感ずると同時に、夏目君の廉恥(れんち)を重んずるの念の深かりしを感ずるのである。その後二十年を経て、同君に熊本にて会いたる時、色々幼年の時のことどもを話し合ったが、ついにこの事実の真偽だけは質しなかった。









2021年10月18日月曜日

腕白時代の夏目君(2)

 この小学校の机及び腰掛は三人一組で、余と夏目君はその腰掛の両端に座を占め、中央には牛込加賀町より通学せる、色白く極めて愛らしい女の子が座を占めていた。この子は、余等の算術を受け持たれたる二十歳ばかりの先生の妹で、鈴木のお松さんという子供であった。このお松さんは容色秀麗なるのみならず、身体健康にしてかつ活発で、各種の課業も余や夏目君の及ぶ所ではなかった。

殊に夏目君と余は、算術が下手で、幾度となく鈴木先生に諭された。算術の課業は今の如く先生が黒板にて練習せしめた後、類似の問題を出して生徒にやらす。出来たものは挙手するを例としたが、余と夏目君はほとんど出来たためしがなかった。

お松さんはいつも一番に挙手して問いに応じて誤ることがなかった。余と夏目君は語り合わざるも、時には景気付けに挙手したものの、人に遅れて挙手せしにかかわらず、そんな時には運悪く解答を質問されて、赤恥をかきしこと一度ならずあった。

かくして日を送る内、お松さんは余等を蔑視するがごとく、時には余等の失策をほかの子供と一様に高笑することがあった。かくすれば余等子供心に、嫉妬心と憎悪の念を生ぜざるを得ない。殊にこの時代は、婦女をさげすみて、学校にて男女席を同うして教えを受くるさえ不快を感じていたから、あるとき学校で、夏目君が言い出したのか余から始めたのか覚えぬが、ひとつお松さんを虐めてやろうと相談した。

しかし先生の妹であるから、ぶったり、つねったりすれば、先生より大変な返報を受くる。課外にお松さんが席にまだ居残れる時、お松さんの両端より腰掛ながら、余等が一度にお松さんを肩にて押しつぶして圧して苦しめてやろう、そうすれば何も証拠は残るまい、と二人は一致した。その後この愧(は)ずべきことを実行した。

お松さんは顔を赤くして大声で泣きだした。余と夏目君は今更驚き狼狽して、共に学校道具もそのままに、門外に逃げたが、たちまち捕われた。その日より十日間、毎日課外に一時間ずつ、双手(もろて)に水を盛りたる茶碗を持たされて、直立せしめられたるのみならず、その後は席を替えられて、同室中で一番薄暗き片隅に移された。








2021年10月11日月曜日

腕白時代の夏目君(1)

 余と夏目君と相識(あいし)りしは、明治6年頃と記憶する。牛込薬王寺前町に一の小学校が設立された。その近傍の子供は、士となく商となく一様に入学を許された。大抵年齢によりて、上は一級より下は六級まで分たれて、六級より三級までは、男女混合であった。

余と夏目君とは三級で、しかも同じ腰掛に座を占めていた。当時の小学校は、校舎その他の設備不完全なりしのみならず、先生も六、七十位の漢学者も交じり、又洋算など教えらるる先生には二十歳前後の人もありて、極めて乱雑なるものであった。

或時、六十ばかりの先生が、福沢塾出版の世界地図を掲げ、アフリカ北部の国々の名を覚束なく指示された。翌日また同じ地理の時間に、同じ先生が続きを教えられることになった。驚くべし。先生は南アメリカの地図を指して、昨日と同じく平然としてアフリカとして教えられた。現今ならば生徒は忽ち挙手して先生の誤解を正す所なれど、この時分は先生の権威隆々として、そんなことをすれば直ちに体罰を課せられる恐れがあった。

この時代の小学生は実に乱暴なものであった。先生・父兄には処女の如くありしも、交友間、もしくは他人に対しては、今想像も出来ぬ程あばれたものだ。殊に廃刀令前後のことであったから、小学生の中でも士族の子供が平民の子供を抑圧することも、またはなはだしかった。夏目君の如きも、のち余と共に、はからずも同じ熊本五高に教鞭を執り、中年以後顔を合わせることになったが、この中年時代の憂鬱(ゆううつ)・寡黙に似ず、小学時代にはすこぶる活発にして、よく語りよくあばれ、余の当時のあだなであった「悪太郎」にも勝って、しばしば先生より叱られたものだ。








2021年10月4日月曜日

小宮豊隆の当惑

 この原稿を読んだ小宮豊隆の当惑ぶりを想像すると可笑しい。勉強はできない。とんでもない乱暴者。と書かれてある。

「あの漱石先生の少年時代がこんなはずがない。いや、あってはならない。これは作り話に違いない」これが小宮の本心であったと思う。

しかし、六歳年長で漱石門下の最先任・寺田寅彦さんのいいつけである。しかも寺田さんは病床に伏して容態は悪いらしい。無視するわけにはいかない。小宮はこの二つの文章を、昭和10年12月号の「漱石全集・月報2号」に載せた。死のひと月ほど前、寺田寅彦は病床でこれを読んだ。寺田自身はこの篠本の話を信じていたように思える。

かたや、「漱石神社の神主」の小宮が、これを快く思ってなかったことは、ありありとわかる。月報でこれを紹介する前に、次のように記している。

「失礼を省みず、正直な所を白状すると、篠本さんのこの話は、私には、少し面白く出来すぎている感がある。盲に悪戯をする所だの、鍛冶屋の息子と喧嘩をする所だの、特にこの感が深い。しかし篠本さんはもう亡くなっているのだから、それを質す訳にもいかない。また仮に質した所で、すでに篠本さんの頭の中にこうした形で記憶されている以上、どうしょうもない。従って私達は篠本さんという人の人となりを想像しつつ、この思い出を、このまま受けとって置くより外、しかたがないようである」


しかし、普通に考えてみれば、大正五年末に漱石が亡くなったあと、篠本二郎が共通の教え子の寺田寅彦に少年時代の漱石のことを、面白おかしく作り話をする必要性はまったくないように思える。同時に篠本自身、自分の書き物が後世の人々に読まれることは、まったく想定していなかったと思う。

伝わるところの篠本氏の人柄と、彼の写真の風貌からして、田頭はこの「腕白時代の夏目君」の内容は、ほぼ100パーセント真実であると思っている。

篠本氏の原稿は案外分量が多い。ここで紹介するのはその一部である。

次回から「漱石の六歳頃の写真」を掲載しようと思う。明治9年の廃刀令の4年ほど前のものであり、古い写真を何度もコピーしたものであろう。とても写りが悪い。端午の節句の時のものであろうか。頭にハチマキをきりりと締めて、左手に大刀を握っている。「お前はサムライの子だ」と親がこのかっこうで写させたに違いない。微笑ましい写真である。

小宮豊隆