伊東巳代治・こぼれ話(5)
神田県令の、伊東巳代治獲得の話はヘッドハンターの私にも興味深い。良い人材を得たいと考えている企業経営者にも参考になると思う。ヘッドハント成功のカギを整理してみる。
① 有望と思う人材を見つけた時には、採用したい旨を敏速に本人に伝える。神田県令は伊東に会った2、3日後に、部下で伊東と同郷の彭城(ほうじょう)という課長を経由して、「伊東を兵庫県官吏に採用したい」と口頭で伝えている。
② これを拒絶されると、すぐに、伊東巳代治に一番影響力を持つのは長崎にいる両親と判断し、彭城課長を使い両親経由で伊東を口説いている。
③ 兵庫県官吏の給与水準が、現在伊東が得ている報酬より低いことから、これに対して柔軟に対応している。この時神田県令は、「本業に差支えない範囲で、今までの新聞社と通訳の仕事を続けて良い」と伊東に言い渡している。すなわち官吏でありながら、副業を認めている。事実、このあと伊東はこれらの副業で官吏の給料以上の収入を得ている。
④ じつはこの四番目に、私は一番感動している。自分が見込んで採用した伊東の地位を、ものすごいスピードで昇格させているのだ。明治6年8月に6等訳官で兵庫県庁に就職した伊東は、24日後の9月1日に5等訳官、翌明治7年1月7日に4等訳官、同年8月13日には3等訳官に昇り、明治8年6月2日には二等訳官に進み、同年10月15日には権大属・外務副課長に就任している。この時、伊東巳代治、満18歳である。
伊東巳代治に能力があったからであろうが、県令・神田孝平にそれだけの権限が与えられていたのだろうか。あるいは、権限を超えて神田が押し切ったのかも知れない。現在の硬直した役所や大企業の人事制度では、とうてい考えられないことである。
公的だけでなく、私的にも神田は伊東を可愛がった。当初は自分の県令官舎に伊東を寄寓させている。英語はできるが漢学の素養不充分と見た神田は、夜は自分の部屋に伊東を招き、漢学・作文を徹底的に教えた。「今日いささか漢文学を解するは、これ神田氏の指導の賜物にて、氏は自分の第三の師父とする所なり」と伊東は後日、手記にしるしている。
この伊東巳代治の日本語の文章力が発揮されるのは、日清戦争の時である。
日清戦争の宣戦布告の詔勅(しょうちょく)が渙発(かんぱつ)されたのは明治27年8月1日である。この原案を起草したのが、当時第二次伊藤博文内閣の書記官長(官房長官)であった伊東巳代治である。
「天祐ヲ保全シ萬世一系の皇祚(こうそ)ヲ践(ふ)メル大日本帝國皇帝ハ忠實勇武ナル汝有衆(ゆうしゅう)二示ス」にはじまるこの詔勅は格調が高い。
並みの書記官長ならおしまいの部分を「汝臣民」と起草したかもしれない。
奈良・平安時代であれば、汝臣民(なんじしんみん)という表示で良い。立憲君主国としての国体である大日本帝国の明治憲法では、天皇が国民に対しての呼びかけとしては、「汝有衆」が正しい。法律に精通した伊東巳代治ならではの表記である。
今一つ、「天皇」と表記せず「皇帝」と記している箇所が興味深い。