伊東巳代治・こぼれ話(6)
伊東巳代治が伊藤博文にはじめて会ったのは、明治9年12月27日の夕方である。根回しは神田孝平がおこなった。実際に伊東と伊藤の面談を手配したのは静間健介という長州人である。この人は、かつて神田県令の部下で参事として兵庫県庁に勤務していた。木戸孝允の兄弟分といわれた人だ。
神田孝平が兵庫県令を辞め、栄転のかたちで元老院議官として東京に向かったのは、明治9年9月3日だ。自分を引っぱってくれた神田が去るので、伊東も、そろそろ転職をと考えていたのかも知れない。今まで資格を必要としなかった代言人(だいげんにん・のちの弁護士)に、資格試験が導入されたのは明治9年である。
巳代治の実力なら軽く合格できる。この頃、伊東はこの資格を取って「国際弁護士」として身を立てようと考えていたふしがある。そうすれば収入も大幅に増える。これに待ったをかけたのが神田孝平である。「そんなチマチマした資格試験なぞ止めてしまえ。これからの日本を引っ張っていく男は、いま工部卿をやっている長州の伊藤博文だ。自分が手配するから一度伊藤にあってみろ。君を生かす仕事があるかもしれない」と伊東に話した。
この時の伊藤・伊東の面談のやりとりは、なんとなく可笑しい。ヘッドハンターの仕事をしている者として、とても興味深い。少し長くなるが、伊東の手記を紹介する。
「静間健介(長州人にて桂の兄弟分なり)の紹介にて伊藤博文公を霊南坂の工部卿官邸(いまの米国大使館)に訪問したのは、明治9年12月27日の午後であった。来客ありし待つこと2時間余。この時の来客は元老院議官の陸奥宗光・元の大蔵省紙幣頭の吉川顕正(あきまさ)他2・3人なり。夕方となりすこぶる空腹を感じぜし頃、給仕が自分の膳を持ち来れり。馳走を食しそれが終わりし頃、奥の間に案内され、はじめて伊藤公に面会したり。
その時伊藤公は自分を一見して、君は思いたるより若いな、と言いながら先ず歳を聞かれたり。君は英語が堪能なりと聞いたが、書く方はいかがかと聞かれたるに付き、一人前には出来るつもりなりと答う。公が、一人前とは日本人の一人前か英人の一人前かと笑いながら聞かれたるにより、それは閣下の御鑑定を願うと、自分も笑いながら答えり。
時に伊藤公は、傍らの書棚より英文の手紙を取り出して自分に渡し、これは米国公使からの来翰なり、これに対し返書を書いてくれと申されたり。この手紙を拝見したる上、伊藤公口授の趣旨に従い返事を認めて、悪(あ)しき所はご指示により改むべしと申し述べ、これを供したり。伊藤公はこの文書を一見したる後、直ちに署名し、自ら封筒に唾(つば)して書生を呼び発送を命じられたり。
君は文章もなかなか良く出来るな、ただし出来るからといって高ぶってはいかぬ。兵庫県にては権大属を務めたりと聞く、まず当分その位にて我慢すべし。勉強次第にて出世すべし、と笑いながら申し渡されたり。自分は頭を低うして謝意を表せり。
その後、公は口を開きて、実は来春英国より雇い入れたる法律家「ビートン」なる者が到着す。先年雇いたる「デニアン」という法律家も帰朝するに付、貴殿はこの両人に附随して工部省にて取り扱うすべての法律事務に従事し、同時に両人より法律の教授を受くるべし、との内意を申し渡され、実に天に昇るような思いをなせり。
自分は明治4年、洋行の念、勃々(ぼつぼつ)たりしに、この望みなしと落胆したことありき。今かようなる良師に就くことは留学すると同じく、なによりの仕合わせなり。俸給等はもとより望所にあらず。無給にてもご奉公すべしと申したるに、伊藤公は言下に、俸給なしでは君の口が乾上(ひあが)るぞと哄笑(こうしょう・大声で笑う)されたり。
急ぎ神田邸に帰り、委細を神田氏に話したるところ、氏は大いに喜ばれたり。1月10日に至りて、工部権大録(ごんたいろく・課長補佐クラスか)に任ぜらるる辞令を受けたり」
ヘッドハンターが面接をセットしてそれを終えたのちに、なにも連絡しない候補者が近頃はいる。それに比べ伊東巳代治は、すぐに神田孝平の自宅を訪問して報告している。成功する人物はこのあたりが違うなあと、老ヘッドハンターは感心している。
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