伊東巳代治・こぼれ話(7)
伊藤博文と伊東巳代治の面接の時間はどのくらいだったのだろうか。工部卿の伊藤は超多忙だ。1時間か長くて1時間半位だったかと思う。この短い時間で、人物チェック・英語の試験・口頭でのオファー提示・候補者の受諾・入省後の仕事の説明のすべてが完了している。
ヘッドハンターの私から見ても、理想的な面接である。伊東が優秀だったからが一番の理由だが、伊東以上に伊藤博文の対応に目を見張る。「人たらし」として多くの若い俊英を惹きつけ、彼らの実力をいかんなく発揮させ、日本の国難を乗り切った、「英傑・伊藤博文」の面目躍如たる姿をここに見る。
① 伊東が伊藤を訪問したのは、午後3時か4時頃かと思える。伊藤にすれば夕食前にこの面接を片付けるつもりだった。そこに陸奥宗光たちが飛び込んできて、会議は予想以上に延びた。若者とはいえ2時間以上も待たせるのは失礼だ、と伊藤は思った。このあたりのセンスが良い。腹が減ったら人間は短気になる。まずは飯を食わせておけ、と書生に命じた。
幕末の頃、伊藤俊輔は桂小五郎の秘書役として、長州藩の京都藩邸で働いていた。腹を空かせて飛び込んでくる各藩の脱藩浪人たちの対応には慣れていた。江藤新平が血相を変えて長州藩邸に飛び込んだ時も、まずは飯を食わせた。
2時間以上も待たされたのに、ご馳走を出された伊東巳代治は悪い気はしない。伊東の自己重要感が満たされる。
② 伊藤博文はいきなり英語の試験をする。駐日米国公使から工部卿宛の手紙だから、重要書類である。それを伊東に見せる。「君を信用している」との意味になる。これに対して伊東は、すぐさま伊藤が満足する内容の英文をしたためる。この時の両者の英語の実力は、今ふうにTOEICでいえば、伊東950点、伊藤850点ぐらいではないか、と想像する。
伊藤は一読して、これにサインして自分の唾で封をして、「これを発送してくれ」と書生に命じる。面接OKの表示である。給料の金額こそ言わないものの、「当分は兵庫県の時と同じく課長補佐程度でやってくれ」と条件提示をする。伊東はすぐさま謝意を表して受諾する。
③ この時の伊東の対応も面白い。ここで伊東は、言わなくても良いことを口走る。「嬉しいです。無給でもやらせてください」と。「それでは君の口が乾あがるぞ」と伊藤は大笑いするが、これを聞いた伊藤博文は悪い気はしなかったはずだ。
この時の伊東巳代治の気持ちは良くわかる。伊東はこの仕事を、「海外に留学する以上に価値がある」と直感したのであろう。高給を得ていた過去4年間の貯蓄で、伊東には2,3年は充分食えるだけのお金があった。伊藤はこれを知らなかったであろう。「無給でも良い。授業料タダの海外留学だ」と伊東が考えたのは正しい判断である。
じつは伊東巳代治にとって、少年時代からの最大の夢は、「海外への留学」であった。明治4年、本人が14歳のとき、工部省・電信頭の石丸安世は、英語のできる若者が多い長崎まで出張してきて、英語のできる少年数名を採用した。明治5年には上海・長崎間に電信海底ケーブルが設置される。この時の電信はすべて英文であった。石丸は、「東京での1年間の研修ののち、成績優秀者は官費にて欧米留学させる」と少年たちに語った。
こころがこれは「カラ手形」だった。首席で卒業した伊東巳代治に与えられた辞令は、郷里の「長崎勤務」であった。「話が違うではないか」と憤慨した伊東は、半年で辞表を出し、神戸に向かう。そして、「兵庫アンド大阪ヘラルド」に入社したという、過去のいきさつがあった。
よって、歳は若いものの、伊東にとって工部省への入省は2度目である。伊東のことだから、オープンマインドに、「じつは、工部省へは出戻りとなります」ぐらい言ったかと思う。これに対して伊藤は、「おお、そうか、それはちょうど具合がいいな!」と笑って答えた。大らかな時代であった。
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