伊東巳代治・こぼれ話(8)
明治憲法の草案を練るときの愉快なエピソードを紹介したい。伊東巳代治は井上毅(こわし)・金子堅太郎とともに「明治憲法制定時の伊藤博文の三羽ガラス」といわれている。
この時、半年以上も外部との接触を断って、横須賀の北北西に位置する「夏島」という小島で合宿生活をしている。大正時代に埋め立てされ現在は陸続きになり、日産自動車や住友重機の工場がある。江戸時代は少数の漁民が住んでいたが、明治初年に陸軍が買収して軍の管理下に置いた。東京湾防備が目的だったようだ。
ここに伊藤博文の別荘が建てられた。伊藤が私利私欲で贅沢をしようと考えたのではない。軍の管理下で機密保持のできる、東京からほど近いこの地に宿泊所を造ったのは、明治憲法制定に備えてのことであった。
ここで、四人はじつに伸び伸びと、互いの意見をぶつけ合っている。おどろくほどの自由闊達さである。明治初期という「日本の勃興期でみなが希望に燃えていた」のが理由なのか、「伊藤博文という人が若者の意見広く聞く度量があった」ためか、はたまた、「伊東・井上・金子の三人の明るく前向きの気質」ゆえなのか、困難な作業の最中に、思わずくすっと笑ってしまうユーモラスなエピソードがいくつも見える。
伊東は手記に、次のように述べている。
「我々は夏島に滞在してめったに帰京することはなかったが、伊藤公だけは時に1週間くらい居られたこともあるが、たいがい2・3日で東京に帰られた。政務の関係もあったが、憲法起草の進行に伴って時々、陛下の思召しを伺はれる必要があった為である。
当時夏島では、伊藤公を始め我々一同の勉強はじつに非常なものであった。毎朝9時には井上君が旅館からやってくる。4人の顔が揃うと議論をはじめる。その間食事もせず晩まで続けたことも少なくない。なにぶん論客揃いであった上に、伊藤公から思う存分意見を言えとの命令があったから、3人は遠慮なく議論を上下した。時には伊藤公の意見を正面から排撃したことも一度や二度ではない。伊藤公も負けては居られぬ。激論の末 ’’井上は腐儒(ふじゅ)だ’’ とか ’’伊東、汝は三百的(さんびゃくてき)だ‘’ とか罵言(ばげん)されることもあった。それでも時を経てから、’’君らが余り熱心に主張するから君らの説に従っておこう’’ と言われたものである」
腐儒(ふじゅ):まったく役に立たない儒者をののしっていう言葉 三百的:明治初期、代言人(弁護士)の資格を持たないでこれを行うもぐりの弁護士をののしっていうとき、三百代言(さんびやくだいげん)と言った
水泳の話も面白い。
「それから夏の暑い日中には、浜辺に出て水泳をやったものである。井上・金子の両君は水泳が達者でほとんど毎日のように海に行く。自分はいつも留守番をして午睡をしていた。そのため両君は自分を水泳の心得が無い者と思ったらしく、我々二人が付き添っていれば危険はないから水泳に行こうと自分に勧めた。ある日3人で舟遊びをした。舟が沖にでた頃に、自分が誤って落ちたように見せかけて、ざぶんと飛び込んだ。両君の驚くまいことか。救助せんと急いで着着を脱ぎ、海中飛び込んだ。あちこちと捜索に努めている。この間に自分は深く潜って向こうに浮かび出て、それから抜手を切って泳ぎだした。その水練の達者なところをはじめて見た両君は、あまりのことに啞然とし、’’まんまとかつがれた’’ と地団太踏んで悔しがったものである」
「兎の話」も愉快である。
当時の日本人は「兎」を食用にし、その毛皮を襟巻にするなど、ペットではなく、この動物を実用的に活用していた。明治天皇が伊藤博文に「若い連中と一緒に肉を食って精力をつけよ」と食用に兎30匹を下賜(かし)された。
「あるとき、陛下から思召しをもって兎三十匹を賜った。小さい離島で逃げ去る恐れもないから、これを野飼にしておいて、時々殺して頂戴したものである。しかるに、たちまち繁殖して二倍にも三倍にもなった。いよいよ夏島を引き上げる時にはそのままにしておいた。帰京後あるとき、海軍大臣の西郷従道侯が自分に向かい、’’この前夏島に遊びに行ったら、兎が驚くほど繁殖して全島兎でいっぱいだ‘’ と言われた。猟好きの自分は、早速5,6の人を誘い鉄砲をもって夏島に出かけた。しかるに島には兎の姿は見えない。くまなく捜索してようやく一匹を発見してこれを猟して帰京した。西郷候にこれを話すと、候は自分の行く前にすでに多数の海軍の水兵を連れて島に渡り、兎狩りをして残らず捕獲したという。’’一匹も残すまいと非常に骨を折ったが、一匹残っていたとは作戦は失敗だった’’ と呵々と大笑いされた。これは自分が、’’まんまとかつがれた’’ 話である」
雉狩猟姿の伊東巳代治 |
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