香月三郎のことを知ったのは大学三年の頃だから、兄の経五郎を知る一年ほど前と記憶する。「坂の上の雲」は203高地での戦いを次のように描写している。
この日=白襷隊(しろだすきたい)が全滅した4日後、明治37年11月30日=ロシア軍の堡塁(ほるい・小型の要塞)に、香月三郎中佐の率いる後備歩兵第十五聯隊(群馬県・高崎)が反復突撃し、ついに白兵戦をもってロシア兵をたたき出した。ところが、占領したこの堡塁にロシア軍の銃砲火が集中して顔も出せない。
右翼から攻めるのが村上正路(まさみち)大佐率いる歩兵第二十八聯隊(北海道・旭川)で、左翼から攻める香月聯隊と対(つい)になって進んだ。両隊とも銃砲火を浴びつつ”け1時間ばかりすくんでいた。香月隊では、堡塁を出ようとして顔を出した一人の士官がその瞬間、顔をもぎとられた。
旅団長・友安治延(ともやす はるのぶ)少将は、村上隊に対して命令を発しようとした。「陣地を出て前進せよ」と。ところが旅団司令部そのものが、このとき飛来した巨弾のため爆破された。司令部員のほとんどが即死もしくは負傷した。伝令兵も死んだ。無傷だったのは友安少将と副官の乃木保典(やすすけ)少尉だけだった。電話線は切れている。友安は乃木に伝令を命じた。
乃木少尉は弾雨のなかを駆けに駆け、ほとんど奇跡的に村上隊の陣地にとびこんだ。「前進せよ」との命令を伝えた。前進するということは全滅するということである。ーこの状態で前進できるかーとは村上は言わなかった。「ただちに前進します、と復命せよ」と乃木に伝えた。しかし、乃木希典(のぎ・まれすけ)大将の次男であるこの少尉は復命できなかった。帰路、前頭部を射抜かれて戦死したからである。
それまでの村上聯隊の突撃は血しぶきとともにおこなわれた。配下の一部隊は敵の鉄条網の前後で一人のこらず戦死した。村上は午後6時、生き残っている残兵百人を率いて前進を開始した。「村上隊がうごいた」、これを知った香月隊はすぐに前進を開始した。
香月隊には残兵四百人がいた。日本軍五百人は、千人のロシア軍を相手に30分の白兵戦をもって、ついに午後9時、山頂に達した。山頂に残るロシア残存兵との白兵戦がさらに続いた。古来、東西を問わず、これほどすさまじい戦いはなかったであろう。そしてついに203高地を占領した。ときに明治37年11月30日午後10時
村上聯隊の残存兵は50人ぐらいであった。香月聯隊のほうは記録に見えない。100人ぐらいかと想像する。両聯隊長とも2600人の将兵を率いて出撃していた。
司馬遼太郎の筆を借り、筆者が多少の事実を書き加えると、香月三郎中佐の奮戦は以上のとおりである。
この時203高地の攻略に失敗していたら、日本人のその後の生活ぶりは、現在とは大きく異なっていたように思う。
203高地占領が出来なかったら、ロシアの旅順艦隊は港内で生き残った。それがバルチック艦隊と合流していたら、東郷元帥の日本海海戦はあれほどの勝利は難しかった。
かなりの数のロシア艦隊がウラジオストクに入港していたら、日本海軍は対馬海峡の制海権を取れなかった。そうであれば満州の日本陸軍は孤立する。日露戦争は日本の敗北で終わったかもしれない。
もしそうであったなら、我々は大学での第一外国語はロシア語を強制され、ウクライナをはじめとする東欧諸国のように、ロシアの支配下で生活していたかも知れない。
香月三郎聯隊長 |
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