香月三郎中佐は、おそらくこの時、兄経五郎が佐賀の役で斬に処される直前、自分宛に書いた漢詩を肌身につけていたと思う。
香月経五郎とは、日本人で最初にオックスフォード大学に学んだ人である。明治6年12月末に帰国し、すぐさま師匠の江藤新平と共に、佐賀藩士族たちの暴走を鎮撫する目的で佐賀に帰郷し、佐賀の役に巻きこまれて25歳と1ヶ月で刑死した。
次のような漢詩である。
寄懐弟香月三郎在浪花 浪花(なには)に在りし弟香月三郎に懐(おも)ひを寄す
汝是男児異女児 汝是(なんじこ)れ男児にして女児と異なる
聞吾就死又何悲 吾れ死に就(つ)くを聞くも又何ぞ悲しまんや
王師西入鶏林日 王師(おうし・皇軍)西のかた鶏林(けいりん・朝鮮)に(攻め)入るの日(こそ)
應識阿兄瞑目時 応じて阿兄(あけい)瞑目(めいもく)せる時と識(し)るべし
203高地陥落のあとの陸軍の大決戦は奉天会戦であった。日本陸軍24万、ロシア陸軍36万が戦った。明治38年2月21日ー3月10日
3月7日の戦闘で、歩兵第三十三聯隊長(名古屋)の吉岡友愛中佐が戦死し、香月三郎中佐が後任に補される。すなわち乃木希典大将の第三軍・第一師団から、奥大将の第二軍への人事異動である。名古屋の第三師団の配下である。
太平洋戦争の戦史を何冊か読んでいる私は、聯隊長は大佐だと思っていた。中佐で聯隊長というのは、兄経五郎の刑死が影響して陸軍での昇進が遅れていたのでは、と一時は考えていた。調べてみて、この考えはまったく誤りだと知った。この時の第三師団配下の各聯隊長の名簿が手元にあり、次のように記されている。
歩兵第六聯隊長 中佐 高島友武
歩兵第三十三聯隊長 中佐 香月三郎
歩兵第十八聯隊長 中佐 渡 敬行
歩兵第三十四聯隊長 中佐 川上才次郎
騎兵第三聯隊長 少佐 中山民三郎
野戦砲兵第三聯隊長 中佐 有田 恕
ほかの師団の中には大佐の聯隊長の名前も若干見えるが、日露戦争時の聯隊長の大部分は中佐であったようだ。ちなみに、香月中佐と共に203高地を攻略した村上正路大佐は、香月より年齢が10歳上である。香月三郎が第三十三聯隊長に補されたのは3月16日付で、奉天での大きな戦闘は終わっていた。ただ、これで戦争の決着がついたわけではない。ロシア側は、戦力を残したままの一時的な撤退、との姿勢を崩していなかった。日露戦争全体の決着がつくのは、5月末の日本海海戦の大勝利のあとである。
日露戦争から凱旋した三郎は、そのまま名古屋の歩兵第三十三聯隊長として勤務し、まもなく大佐に昇進する。曾孫にあたる香月康伸氏からいただいた三郎の写真の軍服の襟章に「33」と見え、肩章に星3つが見えるから、これは名古屋で大佐に昇進した時の記念写真と思える。目がらんらんと輝き精悍な顔つきである。
本人の意思と思われるが、定年の何年か前に陸軍を退いている。「晩年は戦死した部下たちの遺族を慰問して回っていたと祖母から聞いた」と康伸氏からお聞きした。大正5年5月6日、当時流行していたペストで名古屋で亡くなった。54歳。この年の12月に夏目漱石が49歳で東京で没している。
日露戦争時の陸軍兵士 |
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