2023年3月26日日曜日

張騫とシルクロード(5)

 シルクロードのものがたり(11)

張騫「大月氏国」に向かう(3)

「史記・大苑列伝」を続ける。

「ところで、大苑(カザフスタン南部)の王は漢が物産豊かであると聞いて、交易したいと思っていた。そこで、騫を見ると、喜んで問うた。”そなたは、どこへ行きたいのか”

”漢のために月氏に使いしようと思ったのですが、匈奴に道を閉ざされてしまい、逃亡してきたのです。どうか王様、案内者に命じてわたしを送らせてください。わたしが月氏に到着して漢に帰ることができたら、漢は王様にたくさんの財物を贈ることでしょう”

大苑の王は、そのとおりだと思って、案内者と通訳とをつけて騫をおくり、一行は康居国(こうきょ・キルギス)についた。康居国では、中継ぎして大月氏国(現在のウズベキスタン・サマルカンドからプハラあたり)にとどけた」

匈奴の地のどのあたりに拘留されていたのかわからないが、ゴビ砂漠の西側あたりに10年間いたと仮定して、その行進のルートを次のように推測する。

アルタイ山脈の南を、西に向かって下僕の甘父と二人で馬に乗って進んだのであろう。すなわち、現在のウルムチあたりを通過して、天山山脈の北側を通って現在のカザフスタンの東側にたどりついた。いわゆる「天山北路」というルートである。その後、カザフスタン南部・キルギス北部あたりを通過して、現在のサマルカンド・プハラあたりにあった「大月氏国」に到着したと考える。


中学生の私は「月氏(げっし)」という漢字名から、中国人や日本人のような顔をしたモンゴロイドを想像していた。今回調べてみて、「月氏」はイラン系の民族だと知った。もともとはタリム盆地東部(ハミ、トルファン)あたりに住んでいたのだが、匈奴の攻撃を受けていったんは西方のイリ盆地(天山山脈の北東部)あたりに逃げた。その後トルコ系の烏孫(うそん)がイリ盆地に進出してきたので、月氏は再度移動して、現在のサマルカンド・プハラあたりに落ち着いた。この国を「大月氏国」と呼ぶ、と認識している。

ウズベキスタンの西瓜 辻道雄氏提供




2023年3月19日日曜日

張騫とシルクロード(4)

 シルクロードのものがたり(10)

張騫「大月氏国」に向かう(2)

司馬遷の「史記・大苑列伝」を続ける。

「単于は張騫を拘留して言った。” 月氏はわが北方にある。漢はどうして使者を往復させることができようか。考えてもごらん。わしが越(漢の南方の地)に使者を送ろうと思ったら、漢はあえて許すか。それと同じことだろう” 

かくして、騫をとどめること10余年、妻をあたえ、子もできた。しかし、騫は漢の使者の節(しるし)を身につけていて失わなかった。匈奴人のなかに居住していて、取り締まりがますます寛大になったので、騫はそのともがらとともに逃亡して、月氏に向かい、西に走ること数十日で大苑(カザフスタン南部)にいたった」

匈奴の単于の対応は、なんとなくユーモラスでおおらかだ。先述の李陵や蘇武に対する対応も、同じような寛大さを感じる。「漢人の良質人材を優遇して自国の発展に使いたい」との考えがあったように感じる。捕虜として虐待しないで、むしろヘッドハントした高級人材として優遇していたようである。

蘇武の羊飼い19年もたいしたものだが、張騫の10余年、漢の使者の節(しるし)をを身につけてその志を失わなかった話にも感激する。

司馬遷の生年については諸説ある。もっとも古いBC145年説を採ると、彼が5歳のとき、張騫は大月氏国への使者として長安を出発したことのなる。張騫の遠征は漢帝国にとって、国威をかけた大イベントであったと思える。

司馬遷はその時は当然知らなかったが、張騫が10年の拘留ののち匈奴陣営を脱出して再度大月氏国に向かったのは、司馬遷が15歳の時となる。

司馬遷の家系は(どこまで本当かわからないが)、堯・舜の時代から歴史・天文をつかさどる一族といわれる。父親の司馬談が、「張騫はどうなったのか?生きているのか?殺されたのか?」と心配顔で人に語る姿を、少年の頃に何度も見ていたに違いない。

このように想像してみると、後日、司馬遷は張騫から直接聞き取り調査をして、「史記・大苑列伝」を書いたと考えるのが自然である。

干上がったアラル海 
張騫が通過した頃は、満々たる湖であったに違いない
辻道雄氏提供






2023年3月12日日曜日

張騫とシルクロード(3)

 シルクロードのものがたり(9)

張騫、大月氏国に向かう(1)

司馬遷の「史記・大苑列伝」は言う。

「大苑(だいえん・天山山脈の北西部にあたるカザフスタン南部・キルギス北部あたり)の事跡は、張騫が西方に使いしてから明らかになった。当時、天子が匈奴の投降者に問うと、みな言った。 ”匈奴の単于(ぜんう)は月氏(げっし)の王をやぶり、その頭骨で飲酒の器をつくりました。月氏は遁走し、つねに恨んで匈奴を仇(かたき)視しております”

時あたかも漢は匈奴を撃滅しようと考えていたので、これを聞いて月氏に使者を送ろうとした。月氏への道はどうしても匈奴領内を通過しなければならなかった。そこで、よく使者となりうるものを募集した。騫(けん)は郎官の身分で募集に応じ、月氏に使いすることになった。

堂邑県(どうゆうけん・現在の江蘇省)出身の、もとの奴僕であった匈奴人の甘父(かんほ)とともに、隴西(ろうせい・現在の甘粛省)を出て匈奴領を通過した。匈奴はこれを捕らえて単于のもとに送った」


漢の武帝が16歳で即位したのはBC140年で、張騫が100人余を率いて長安の都を出発したのはその翌年である。張騫の年齢はハッキリとはわからないが、20代の近衛将校だったと想像する。冒険心に富んだ若者だったのであろう。

漢の初代の皇帝・劉邦が即位したのはBC202年だから、その63年後である。劉邦が即位したころの匈奴の王は冒頓単于(ぼくとつぜんう)という指導力のある大物で、匈奴の軍事力はすこぶる強大だった。劉邦は何度も匈奴と戦っているが、ことごとく敗戦している。「当時の漢は、項羽と攻防を展開し、中国は戦争で国力が衰退していた。それ故に、冒頓は自国の軍事力を強化することができた」と司馬遷は「匈奴列伝」に、その理由を冷静に分析して記述している。

以来60年間、漢は匈奴と条約をむすび、「穀物や絹など、匈奴の欲しいものを毎年与えるから攻め込まないでくれ」と匈奴に対して下手に出て、ひたすら自国の経済力と軍事力の強化に励んだ。5代目の皇帝・武帝が若くして即位すると同時に、漢帝国は北へ西へと、一気に勢力拡大路線に打って出たのである。


私が「月氏」、「大月氏」という言葉をはじめて聞いたのは、中学か高校の授業だった。「中国の西にある国だ」と社会の先生は説明してくれたが、どんな顔をした人々で、どのあたりに住んでいるのかわからず、雲のかなたのおとぎの国、のような印象を持った記憶がある。先生も深く理解していなかったような気がする。それから数十年。大月氏国がどこにあったかやっとわかった。自分にとって大発見で昂奮している。

さてその前に、張騫はどのあたりで匈奴の軍団に捕まったのか? 私の認識では、今日の中国の領土である「玉門」、「安西」、「敦煌」あたりの気がする。

800年後の盛唐の頃には、このあたり一帯は唐の支配の最西端にあたる。王維や李白の詩の中に、これらの地名は頻繁に出てくる。しかし漢の時代には、このあたりは中国の支配下に入っていなかった。

南ゴビ砂漠 辻道雄氏提供



2023年3月6日月曜日

張騫とシルクロード(2)


 シルクロードのものがたり(8)

張騫の活躍については、できるだけ司馬遷の「史記・大苑(だいえん)列伝」から直接引用して紹介したい。ただ、これをまとめるにあたり、長澤和俊先生の著書「張騫とシルクロード」をずいぶん参考にさせていただいた。

私は学生時代から「史記列伝」が好きで、おもだった人物の列伝はだいたい読んでいる。大好きな「屈原」、「魯仲連」、「東陵侯召平」、「季布」の箇所は、ノートに写して大声で読んでいた時期があるので、これらの人々は今でも身近な「お友達」のような気がする。

このように、「史記列伝」をある程度読んでいると思っていたのだが、張騫については見落としていた。現代の学者や作家の本を読んでいて、いくつかの箇所に「司馬遷の史記列伝によれば」と張騫のことを紹介している。「見落としていたのかな?」と手元にある「史記列伝」・野口定男訳を、改めてひも解いてみた。やはり見落としていた。

「大苑(だいえん)列伝」の8割が張騫の伝記であることを最近になって知った。大苑というのは地名なので見落としていたのだ。

考えてみれば張騫は司馬遷より20-30歳年長で、漢帝国の英雄であった。武帝が張騫に与えた「博望公(はくぼうこう)」という称号は、現在の日本でいえば国民栄誉賞くらいの価値があったかと思う。後世、中国から外国に使いする者は皆、この「博望公」を名乗ったというから、当時の中国における張騫の名声がうかがい知れる。

司馬遷は、自分は張騫に会ったとは史記の中では語っていない。しかし、漢帝国のお抱え歴史家の家系に生まれた者として、司馬遷は張騫に直接面談して取材して、この「大苑列伝」を書いたに違いあるまい、と私は想像している。


「史記」や「漢書」を読んでいて閉口するのは、西域の国々の名前が数多く漢字で登場することである。鳥孫・大苑・康居・大夏・安息・身毒などなど、ほかにも数多く漢字の国名が登場するのでわかりにくい。身毒以外のこれらの国々には遊牧民族が多いので、一か所に定住せず移動しながら生活している。なおかつ、数十年程度で、これらの国の勢力が拡大したり縮小したりしているので、始末が悪い。

ここでは「だいたいの場所」として現在の国名でご紹介したい。専門家の方から見れば、私の認識は少々雑かもしれない。もし誤りがあればご指摘いただきたい。

おおざっぱに、私は次のように理解している。「大苑」とは天山山脈の北から西にあたる。カザフスタン南部・キルギスあたり。「康居」とは現在のタシケントあたり。「大夏」とはアフガニスタン。「安息」とはイラン北部。「身毒」とはインドである。張騫は大夏(アフガニスタン)で聞いた話として、「条枝」についても武帝に報告している。これは現在のシリア・レバノンあたりにあった国のようだ。その北西には「ローマ」という国があることまで報告している。

司馬遷の「史記大苑列伝」を丁寧に読んでいて、それぞれの国々に関する位置関係を含めてその情報がとても正確なことに驚く。張騫の武帝への報告が正確だったこともあろうが、司馬遷が張騫から直接聞き取り調査したのは間違いないと思っている。

次回から、司馬遷の書いたものを直接引用しながら、張騫の歩いたシルクロードのルートを探ってみたい。


ウズベキスタンの西瓜とハミ瓜 辻道雄氏提供