2023年5月1日月曜日

張騫とシルクロード(9)

 シルクロードのものがたり(15)

「中国とインドは近い!」 驚くべき武帝への報告(2)

武帝の肝いりで実行された「蜀(四川)からインドを経由してのアフガニスタン入り」の遠征は失敗に終わった。現在の中国・雲南省、ミャンマー北部に、いくつもの勇敢で狂暴な民族がいたからである。

現在の四川は、漢の武帝の頃にはすでに漢の勢力圏に入っていたが、雲南はその影響力の届かない「蛮夷の地」であった。

この時(BC126)から約350年たって、四川の地に劉備玄徳が諸葛亮孔明の力を借りて「蜀漢」という国を建国する。諸葛孔明の時代になっても、雲南は以前と同じく「蛮夷の地」であった。諸葛孔明はその晩年、蜀(四川)からみずから兵を率いて雲南方面に遠征している。この話は面白いので、ここでご紹介する。

そこには孟獲(もうかく)という狂暴な少数民族の頭(かしら)がいた。孔明は「孟獲を生きたまま捕らえろ」と全軍に命じ、その通り、孟獲は生きたまま孔明の前に引き出された。

「わが軍をどう思うか」と孔明は孟獲に聞いた。「お前たちの軍勢の実態を知らなかったので今回は負けた。たいしたことはないとわかったので、この次は負けはしない」と孟獲は答えた。孔明はそのやんちゃで勇気ある返答に好感を抱いた。「そうかそうか。でもこれからは我々に逆らうでないぞ」と笑いながら孟獲を釈放してやった。

ところが、孟獲はふたたび、蜀漢に対して謀反した。こうして、孟獲は七たび戦って七たび捕虜になった。そのたびに孔明はこの孟獲を釈放してやったという。孔明はこの孟獲というやんちゃで一本気な男がよほど好きだったようだ。

最後のとき、孟獲は立ち去ろうとせず、「丞相(孔明)は天帝のようなご威光をお持ちです。わたしたち南中の者は二度と謀反することはありません」と言って、心から降伏した。雲南地方の平定を完了した孔明は、孟獲を御史中丞という官職に任じ、土着の豪族たちにそれぞれ官位を与えたという。私はこの話がとても好きである。

私は雲南には行ったことなないが、今でも雲南地方には、この時の孔明の徳を慕って、「諸葛亮孔明を祭る廟」が各地にあると聞く。350年ほど先に進みすぎた。張騫と武帝の時代に戻る。


天明4年(1784)に発見された「漢委奴国王印」の金印は、後漢の光武帝がAD57年に、北九州にあった奴国の首長に与えたものだという。これと同じ大きさの「滇(てん)王之印」という金印が1955年に雲南省晋寧県で発掘された。この金印は「史記・西南夷列伝」の中に、漢の武帝が元封2年(BC109)に滇王(てんおう)へ王印を与えたという記述に一致する。北九州の金印と166年の差があるものの、同じ字体と形・大きさから察して、この二つの金印は「長安の同じ工房」で鋳造されたものであろう、と中国の研究者は語っている。

この四川から雲南を経由してのインド・アフガニスタン行きの試みが失敗した17年後である。4つのルートから山脈を超えようとした、と司馬遷は記録している。雲南省の地図を見ると、「大理石」で有名な大理、「プ―アール茶」で有名なプ―アールという地名が、雲南省西部の山脈のふもとに見える。遠征隊はおそらくこのあたりを通過したのであろう。

「滇(てん)族は漢の遠征隊を助けたが、昆明(こんめい)族は反抗した」と司馬遷は書き残している。武帝からの先ほどの金印は、滇族はこのとき漢の遠征隊に協力したことへのご褒美かと思える。

すなわち、当時の漢の皇帝から見れば、東方の北九州の奴の首長も、南方の雲南の首長も同じような蛮族の首長であった。南方の雲南は中国の一部になってしまった。かたや東方の民族は、いまだ踏ん張って独立を保っている。


おしまいにもう一つ、張騫の武帝への報告書の中で、私がはっと驚いた新鮮な記述を紹介したい。

「大苑(カザフスタン)から安息国(イラン)に至るまでは、言語は異にしていますが習俗は大いに似かよっています。その習俗は女子を尊重し、女子の言葉によって男子は事を決定します」と、女性の地位が高かったことが記されている。

2023年4月11日の日本経済新聞の朝刊には、次のようにある。

「アフガニスタン、女性100万人登校できず。タリバンが女性の教育と就労を禁止」

2100年前、この地方ではそうではなかったことが、司馬遷の記述で我々は知ることができる。







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