シルクロードのものがたり(16)
これから数回に分けて、シルクロードを旅した果物と野菜の話をしたいと思っている。その前に、2100年ほど時代を下り、日本の兵隊さんの話をしたい。
張騫が「大苑・だいえん」の南「康居・こうきょ」を訪問したのはBC120年ごろである。「康居国」とは現在のキルギス西部・ウズベキスタン東部にあたる。
それから2100年後、この地方を大地震が襲った。1966年4月26日のことである。震源地はタシケント市の中央部地下、マグネチュード5・2の直下型の大地震である。当時のタシケント市の人口は約200万人。民家の多くは日干レンガ作りであったので被害は甚大だった。約8万の家が崩壊し、約30万人の人々が戸外に放り出された。
余震が続くなか、36歳の主婦ゾーヤは、「みんな外へ出て! ナボイ劇場の建っている公園に行くのよ!噴水の周りに集まりましょう」 こう言って子供たちの手をつかんで外に飛び出した。近所に人々にも、「ナボイ公園に逃げましょう!」と声をかけ続けた。
ゾーヤがとっさにそう思ったのは、16歳の時、ナボイ劇場建設を手伝った時に聞いた日本人捕虜の言葉を思い出したからだ。たとえナボイ劇場が倒れていたとしても、公園には広い空き地があり安全である。ゾーヤはそう思った。
タシケントは天山山脈の西側に位置し、日本ほどではないが、地震が時々ある。
ソ連の捕虜となり、満洲からこの地に連行された日本人457人(隊長・永田行夫大尉)の工兵隊員が、ソ連の命令によりこの地に劇場を建設していた。ゾーヤたち現地の少女たちは、事務や軽作業であったが、この作業を手伝っていた。日本人捕虜たちはみな働き者で、ゾーヤたち現地の少女たちに親切だった。休息時間には日本の歌を教えてくれた。ゾーヤは今でも「さくら・さくら」や「草津節」を歌うことができる。
歌を教えるだけでなく、日本の兵隊たちは次のようにタシケントの少女たちに教えた。「日本は地震が多い。これは大きいぞ、家が倒れるかもしれないぞと思ったら、迷わずすぐに外に出て広場などに避難するのが良い」ゾーヤはとっさにその言葉を思い出したのだ。
ナボイ公園に着いた人々は、みんなが息を呑んだ。
ナボイ劇場はどこも崩れることなく、なにごともなかったかのように、すっくと建っていた。タシケント市のシンボルであるナボイ劇場が凛として建ち続けている姿を見て、多くのタシケント市民の目は潤んだ。この劇場の建設に携わったことを誇りに思っていたゾーヤは、涙が止まらなかった。
大地震にびくともしなかった日本人捕虜が造ったナボイ劇場の話は、またたくまに、当時のウズベク・カザフ・トルクメン・タジクなど中央アジア各地に伝わった。
この劇場が完成した時、ソ連邦政府は「日本人捕虜が建てたものである」とウズベク語・ロシア語・英語のプレートを劇場裏手の外壁に埋め込んだ。
1991年、ウズベキスタンはソ連から独立した。カリモフ大統領は「ウズベキスタンは日本と戦争をしたことはない。日本人を捕虜にしたこともない」と指摘したうえで、「捕虜」という文字を削除させた。そして新しいプレートを作らせた。
「1945年から46年にかけて、極東から強制移送された数百名の日本国民がこの劇場の建設に参加し、その完成に貢献した」と。文章の順番も、ウズベク語・日本語・英語・ロシア語の順に刻まれているという。
これをまとめるにあたり、嶌信彦著「伝説となった日本兵捕虜」を参考にさせていただいた。
ナボイ劇場 辻道雄氏提供 |
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