シルクロードのものがたり(19)
林檎(りんご)
私はりんごはそれほど好きではない。嫌いではないが、柿や葡萄のほうが美味しい。ただ、りんごには恩義のようなものを感じている。「のぶちゃんはりんごのおかげで命が助かったんだよ」と、子供のころからしばしば母から聞かされていたからだ。このことは「りんごの話」という題で、2020年11月にこのブログで紹介した。
中学生のとき、野島先生が「りんごの原産地はコーカサス地方です」と胸を張っておっしゃったのを覚えている。「生まれ故郷が冷涼地なんです。だから日本では青森県や長野県のような寒い地方でつくられます。広島県の海辺の温暖なこの地方ではうまく育ちません」と言われたのを聞いて、フムフムと納得した記憶がある。
ヨーロッパの人々は、りんごの祖先は欧州に生育する野生のりんご、と何千年も考えていたらしい。現在では、「りんごの原産地はタクラマカン砂漠の北側にある天山山脈の西側あたり」というのが、世界の植物学者の定説らしい。
米国人・マーシャ・ライフの「りんごの文化誌」には、「BC334年、アレキサンダー大王がペルシャを征服したあと、りんごと共にペルシャ人庭師を連れて帰り、ギリシャ人にりんごの栽培方を教えた」とある。張騫の遠征より200年以上前である。よって、張騫が遠征する何百年、何千年も前から、多くの果物・野菜の種子がラクダや馬の背に乗って東西に旅をしたと考えるのが自然である。
古代ローマ人も、カール大帝の時代の人々も、また中世・近世の欧州人も、このりんごという果物をとても大切に扱った。そして現在でも、このリンゴは「果物の横綱」の地位を保ち続けている。
それゆえに、ヨーロッパにはりんごにまつわる話や、りんごに絡む歴史的事件が多い。
旧約聖書のアダムとイブが禁断の果物・りんごを食べた話は説明の要はあるまい。伝説の人物ではあるが、スイス人のウイリアム・テルが息子の頭にりんごを載せてそれを射るように命じられたのは14世紀初めの話である。英国人のアイザック・ニュートンが木から落ちるりんごを見て、万有引力の法則発見のヒントを得たのは18世紀の初めである。
現在我々が食べている大型のりんごは、明治になってアメリカから入ってきた。子供の頃「印度りんご」という旨いりんごがあったが、国光(こっこう)に比べ少し値段が高かった気がする。中学生になって、野島先生から先の話を聞いて、「インドは暑い国なのにりんごがあるなんて不思議だなあ」と思った。アメリカのインディアナ州で品種改良されたりんごとは、そのあとで知った。
明治のはじめ頃、日本人はこの果物をアメリカ人が言うとおり「アップル」と呼んでいた。尊王攘夷の生き残りの国粋主義者が「異国の言葉を使うのはけしからん」と言ったのであろうか。明治10年代に入ると、日本人はこの果物を「苹果・へいか・ひょうか」と呼ぶようになる。当時中国(清国)でそう呼ばれていた。考えてみれば、この苹果も異国の言葉である。ところが、明治30年頃になると、日本人は突如としてこの果物を「林檎」と呼ぶようになる。
盆栽の「姫林檎」と「アップル」は大きさこそ異なるが、同じ形をして味も似ている。「これは同じ種類の植物だ」と誰かが気付いたのであろう。この「林檎」も千年以上前に中国から教わった言葉である。政府が命じたわけでもないのに、日本人は明治初期の30年のあいだに、「アップル」、「苹果」、「林檎」と3回もこの果物の呼び方を変えている。この不思議について、私は以前から興味を持って調べている。まだ結論は出てないのだが、現時点では私は次のように考えている。
明治18年の内閣制度への移行、明治23年の大日本帝国憲法と教育勅語の発布、明治27年の日清戦争あたりにその理由があるのではあるまいか。
庶民は昔から天皇のことを、「天子さま」、「みかど」、「おかみ」などと呼んできた。「天皇陛下」という言葉を日本人が使いはじめたのは、上記の明治20年代に入ってかと思われる。
「今年のヘイカは出来が悪いな」、「ヘイカの値段が下がってきたよ」、「このヘイカは旨くないなあ」、などの庶民の会話に警察官が注意したのかも知れない。そうではなく、人々自身が、昔からある「林檎」という優しい呼び方に親しみを感じたのかも知れない。
島崎藤村の「若菜集」は明治30年に刊行された。「初恋」にははっきりと林檎と書かれている。これが苹果であったら、いささか興ざめである。「林檎」で良かったと思う。
まだあげ初めし前髪の 林檎のもとに見えしとき
前にさしたる花ぐしの 花ある君と思ひけり
林檎畑の樹の下に おのつ”からなる細道は
誰が踏みそめしかたみぞと 問ひたまふこそこひしけれ
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