シルクロードのものがたり(34)
元二(げんじ)の安西(あんせい)に使いするを送る
法顕は瓜州(安西)を経由して敦煌を目指しているのだが、政治動乱が収まらないのでいまだ張掖(ちょうえき)にいる。長安から張掖までは1000キロ。張掖の次が酒泉で、嘉峪関(かよくかん)・玉門・安西(瓜州)へと続く。張掖から安西までは600キロである。
三つのシルクロードの出発点ともいえる安西の西方150キロに敦煌があり、敦煌の西150キロに玉門関がある。そして、敦煌の南西100キロに陽関(ようかん)がある。陽関とは、「玉門関の南(陽)の関所」という意味らしい。王維(701-761)の生きた時代は、この玉門関・陽関あたりまでが唐の勢力圏だと、当初私は考えていた。
唐の詩人たちの西域詩については、玄奘三蔵のあとに紹介したいと考えているのだが、例外として、ここで王維の詩を取り上げたい。多くの日本人が知っているこの有名な詩を、私がここで紹介する必要はないのかも知れない。この詩への私の思い出、私の誤っていた解釈を聞いていただきたいとの気持ちで、文章を続ける。
元二(げんじ)の安西(あんせい)に使いするを送る
謂城(いじょう)の朝雨 軽塵(けいじん)を浥(うるお)し
客舎青青(かくしゃせいせい) 柳色新(りゅうしょくあらた)なり
君に勧む 更に尽くせ一杯の酒
西のかた陽関(ようかん)を出つ”れば 故人無からん
現代語の訳はまったく必要としない。分かりやすい美しい詩である。元二は元兄弟の二番目の弟。王維はこの人の兄もしくは父親と交友があったと思える。謂城(いじょう)は秦の旧都・咸陽(かんよう)の別名である。長安の西30キロにあり、当時は西域方面へ旅立つ人をここまで見送るならわしがあった。よって謂城には、見送り人を宿泊させる数多くの旅館があった。
この詩に私がはじめて接したのは、高校1年か2年の漢文の時間だった。花房先生がこの詩を解説してくださった。「故人というのは死んだ人ではないよ。古い友人という意味だよ」とおっしゃった。その後で先生はこの詩を朗々と吟じられた。身振り手振りを加え、あたかも舞を舞うようなその姿を今でも鮮明に覚えている。最後の句を、「なからん、なからん、故人無からん」と、二回か三回繰り返された記憶がある。漢詩が好きになったのは、このことが一つの理由かも知れない。
岩波文庫の「王維詩集」を含め、手許にあるこの詩のすべての読み下しは、「客舎青青 柳色新なり」とあるが、この時花房先生は「客舎青青 (として) 柳色新なり」と教えてくださった。だから私は、今でもこの詩を口ずさむ時は「として」を入れて読んでいる。
以来、半世紀以上、時おりこの詩を口ずさみ、幸せな気分を味わっていた。
ところがこの数カ月、この「シルクロードのものがたり」をまとめるため、いくつもの地図をながめながら何冊かの本を読んだ。そして、「変だな、変だな、この詩は少しおかしいのではないか?」との疑問が沸いてきたのだ。
というのは下の地図にある通り、「安西」は「瓜州」のことであり、その西方150キロに敦煌があり、敦煌の南西100キロに陽関がある。これでは、この詩はつじつまが合わない。