2024年9月10日火曜日

65歳の法顕、天竺に向かう(7)

 シルクロードのものがたり(36)

中国からの姫、繭(まゆ・シルク)を冠の中に隠しホータン王に嫁ぐ


法顕はクチャには立ち寄らず、その南東あたりから、南西に向かってタクラマカン砂漠を横断し、ホータンに到着した。401年の3月頃と思われる。35日間をかけての危険な沙漠の横断で、法顕は次のように記している。「この行路中には住む人もなく、沙漠の艱難と苦しみはとうていこの世のものとは思われなかった」

玄奘三蔵がインドからの帰路、このホータン(和田)に立ち寄ったのは646年だから、法顕が訪問した245年のちである。玄奘三蔵は、この時ホータンで聞いたある伝説を「蚕種西漸伝・さんしゅせいぜんでん」として「大唐西域記」に書き残している。

「その昔、この国では桑や蚕(かいこ)のことを知らなかった。東方の国にあるということを聞き、使者に命じてこれを求めさせた。ところが、東国の君主はこれを秘密にして与えず、関所に桑や蚕の種子を出さないように厳命した。ホータン王はそこで辞を低くしてへりくだり、東国に婚姻を申し込んだ。東国の君主は遠国を懐柔する意思を持っていたので、その請いを聞き入れた。

ホータン王は使者に嫁を迎えに行くように言いつけ、”汝は東国の君主の姫に、わが国には絹や桑・蚕の種子がないので持ってきて自ら衣服を作るようにと伝えよ” と言った。

姫はその言葉を聞いてこっそりと桑と蚕の種子を手に入れ、その種子を帽子の中に入れた。関所にやって来ると役人はあまねく検索したが、姫の帽子だけは調べる非礼はしなかった。それで種子を携えたまま、ホータン国の王宮に入った」

井上靖・長澤和俊の両泰斗は、このことを次のように解説している。私にはこの説明が理解しやすい。

「昔、西域南道一帯に勢力を張っていたホータン王は、絹をつくりだす秘法を東方の国(中国)に求めたが、養蚕の技術は国外不出なので中国の君主はこれを許さなかった。しかし中国人が愛玩する玉(ぎょく)を産する西域の強国、ホータン王の願いを無下にしりぞけることは憚られたのであろう。中国の君主は、その王女をホータン王に嫁がせることでこれを懐柔しようとした。

ここで一計を案じたのがホータン王である。彼は妃となるべき王女に、ひそかに蚕の繭玉を持ち来るよう、使いを遣って依頼した。王女は未来の夫の言いつけをよく守った。彼女は自らの冠の中に蚕の繭玉を忍ばせ、みごと国禁を犯してそれをホータンの国にもたらしたのである」

ここで「玉(ぎょく)」という言葉が出てきて、私は大きく納得した。ホータンは古来から玉(ぎょく)の名産地である。シルクロードは言葉を換えれば、ホータンの玉が中国へ運ばれる「玉の道」でもあった。もしかしたら、「絹の道」よりも「玉の道」のほうが古い歴史があるような気がする。これについでは、またどこかで語りたい。

中国の君主が玉を産するホータン王に気を使った、というのは理解できる。


左から二人目が王女、その左は侍女で冠を指している。王女の右は織物の神、その右は王様といわれている。






















2024年9月2日月曜日

65歳の法顕、天竺に向かう(6)

 シルクロードのものがたり(35)

元二(げんじ)の安西(あんせい)に使いするを送る(2)

元二は安西に使いする。王維は冒頭でそう述べている。陽関(ようかん)は安西(あんせい)の西250キロに位置する関所である。安西に使いする元さんの弟が、なぜ陽関まで行き、さらに西方に向かう必要があるのか?という疑問が当然のこととして湧く。

「変だな、変だな。感情が高ぶった王維の筆が滑ったのかな」とも思った。天才・李白ならありうることかも知れない。しかし、真面目人間の王維には考えられないことだ。このように悩み続け、私はこの二ヶ月間を悶々として過ごしていた。


この私の悩みを解決してくれたのが、森安孝夫先生の「シルクロードと唐帝国」という本の中にある 「七世紀の太宗・高宗時代の唐の最大勢力圏」 の下の地図である。これを見て私の目からウロコが落ちた。安西(あんせい)というのは固有の地名ではないのだ。「西を安んじる」ために置かれた節度使(せつどし)の軍事拠点(駐屯地)のことだったのだ。

安西①③、安西②④の文字が見える。安西①③は敦煌の東方150キロであるから、この地図は正確ではない。この地図よりも何百キロも東方に位置する。(私は鉛筆で→をつけた)つまりこの軍事拠点(駐屯地)は中国の軍事力・政治力の盛衰と共にあちこちに移動していたのである。

すなわち、当初の安西①は敦煌の東150キロの瓜州にあった。太宗・高宗の時代に唐の勢力圏は拡大し、安西②はクチャ(庫車・亀茲)まで進出した。安西①より1000キロ西まで唐の勢力範囲は拡大したのである。王維がこの詩を書いたのは玄宗皇帝の時代だが、唐の勢力はまだ強大であり、この時の安西はクチャにあったのだ。これがわかれば、王維の「西のかた陽関を出つ”れば故人無からん」の文章に合点がいく。

三代皇帝・高宗の頃は(在位649-668)、唐の勢力範囲は(領土ではない)西はタシケント・サマルカンドを含みカスピ海の東のアラル海まで達している。南西はパミール高原を含み、バーミアン・ガンダーラまで、すなわち現在のアフガニスタン、パキスタン北部まで、唐の影響力が広がっていた。これらの事実からして、法顕とは異なり玄奘三蔵は、大唐帝国の威光を背景に、「かなり大きな顔」をして、これらの地域を歩いたような気がする。

玄宗皇帝が楊貴妃の色香にうつつをぬかしたためか、はたまた安禄山の乱が理由か、唐の国力は衰えていき、やがて安西③はもとの瓜州にもどった。余談だが8世紀前半(玄宗皇帝が即位した頃)、クチャ(②の安西)にあった安西節度使の持つ兵力は、将兵24,000人・馬2,700頭と記録に残っている。

この地図を見ると、安西と同時に安東もあった。この地図には入っていないが安東①は朝鮮半島の平壌にあったが、国力の衰退によるものであろう、安東②は遼東半島に後退している。安北①はバイカル湖のすぐ南だが、国力の衰退と共に安北②まで後退している。その位置がまったく変わらないのは安南のみで、一貫して現在のハノイにあった。阿倍仲麻呂は文官なので節度使ではないが、一時期この安南の長官に就任している。


この「安西」「安東」などの文字は、唐の時代よりも以前から使われていたようだ。

「宋書・倭国伝」には、宋(隋の前の中国の国名)の皇帝が、何人もの倭の国王に安東将軍の称号を与えたことが記されている。「倭の珍を安東将軍・倭国王を除(じょ)す」「倭国王の済(せい)を安東将軍に任ず」「倭王の興(こう)を安東将軍に任ず」「倭国王の武を安東大将軍・倭王に除す」などの文字が見える。仁徳天皇、允恭天皇、安康天皇、雄略天皇たちだと言われているので、紀元300年代の後半から400年代の半ば過ぎのことだ。ちょうどこの主人公の法顕が生きていた時代である。

日本側にはそのような意識はなかったかも知れないが、宋(中国)側は、「これで中国の東の勢力範囲は日本列島まで拡大したよ!」と喜んでいたように思う。