2026年1月26日月曜日

玄奘三蔵の話(4)

「長安での二十年」(1)

 シルクロードのものがたり(92)

玄奘が敦煌に着くと、太宗皇帝からの手紙が届いていた。それには、ホータンからの運搬費をすべて敦煌の役所が支払うこと、近く高句麗に遠征するので自分はしばらく国を離れること、しかし不在であっても宰相の房玄齢(ぼう・げんれい)に手厚く迎えるよう命じてある、等が書かれてあった。

じつは、太宗は玄奘がホータンから奉じた書面を見る前に、すでに玄奘という僧がインドから中国に向かって帰国の途にあることを知っていた。インドの戒日王(ハルシャ・ヴァルタ)が玄奘法師との出会いに感激して、玄奘がインドを出発した直後に、唐に国交を求めて使節団を送っていたからである。チベット経由の最短コースであったので、インド王からの国書のほうが玄奘の上奏文よりも早く長安に届いていた。インド王の文書には、当然ながら玄奘のことがべた褒めされていた。

本当のことを言うと、「隋王朝と違い唐王朝は長期の政権になると思われる。よって唐と国交を樹立しておくことはインドにとって得策である」と戒日王にアドバイスしたのは、ほかならぬ玄奘自身であったことが前後の動きからして読みとれる。この行為は、仏教を学ぶ一学僧の域を超えている。あきらかに、辣腕外交官・政治家の発想であり動きである。

太宗からの手紙を読むや、玄奘は長安への帰国を急ぎに急いだ。敦煌から長安までの距離は1650キロある。通常はこのように大量の荷物を持っての移動は、1日に30キロとされている。単純に計算すると56日を要することになる。ところが玄奘は、22頭の馬に経典を積み、各馬を疲れていないフレッシュな新馬に20回も取り換え、1日に60キロの移動を強行させ、半分の30日をもって長安城外に到着したのである。

貞観19年(645)の正月6日の夕刻であった。到着があまりにも早かったので、宰相・房玄齢の出迎えが間に合わなかったといわれている。これほどまでに玄奘が帰国を急いだのは、太宗が高句麗遠征に出かける前に拝謁して、仏典の翻訳に関して国家援助の確約を取っておきたかったからである。


玄奘と対面した太宗は上機嫌であった。しかし、皇帝は玄奘に対して二つの難題を突きつけた。一つは、「還俗して俗人にもどり、朕を補佐してほしい」との依頼である。太宗という人は好奇心旺盛で積極的な気質の人だったようだ。かつて漢の武帝が、豪傑外交官の張騫や蘇武を見たのと同じような目で、太宗はこの玄奘を見ていたことが感じ取れる。いま一つ、太宗は、「しばらくすると自分は東方へ遠征する。自分に同行して、毎夜西域での珍しい見聞を聞かせてくれ」と要請している。

この二つを、いずれも玄奘は体よく断っている。それでいて、太宗から嫌われていない。かつて、玄奘は高昌国やインドにおいて国王の依頼を断ったものの、両王様から嫌われていない。これと同じことが太宗とのあいだにも見ることができる。不思議な能力を持っていた人だ。

玄奘は王様や皇帝に対して、はっきりと自分の考えや希望を述べている。だからといって、かたくなに自己主張を続けるという態度ではない。相手に歩み寄れることであれば、柔軟性をもって譲歩している。たとえば次のような出来事があった。

インドから持ち帰ったサンスクリット語の経典は657部もあり、これを翻訳することが玄奘の後半生の最重要の仕事である。この翻訳作業に没頭するには、人里はなれた僻地が良いと考えた玄奘は、自分の故郷である洛陽の山中にある「少林寺」が最適だと太宗に希望を伝えた。「面壁九年」の達磨(だるま)大師と縁の深い古寺である。自分の故郷であり、同時に中国仏教の聖地でもある洛陽の山中の寺ということが、玄奘の心にかなったのであろう。

しかし、これに対して太宗は異を唱えている。「いや、あの山中は遠くてよくない。朕は母の供養のために長安の静かな場所に弘福寺を建立した。ここを使用しなさい」と。太宗は玄奘を自分の手元に置いて、ひんぱんに西域の珍しい話を聞きたいと希望している。これを察知した玄奘は、すぐさま少林寺案をひっこめ、弘福寺案に同意している。

こうして弘福寺において3年、その後は大慈恩寺において16年、玄奘は遷化する一ヶ月前までの19年間にわたり、多いときには54名の翻訳者を使い、74部、1335巻の仏典の翻訳を完成させている。



2026年1月19日月曜日

玄奘三蔵の話(3)

「天竺から長安への帰路」

 シルクロードのものがたり(91)

ハルシャ・ヴァルダナ(戒日王・かいじつおう)からの莫大な喜捨のおかげで、玄奘は今までに収集したものに加え、多量の仏典や仏像を購入することができた。多数の従者と共にインドを出発して北に向かった。戒日王の指示で、北インド王の軍隊が玄奘一行を護衛した。仏典や仏像の輸送は軍隊にゆだね、玄奘自身は美しく飾った象に乗って北へ進んだと記録にある。

644年のことだ。インドに滞在した期間は13年となり、このとき玄奘は42歳であった。

現在の世界地図でアフガニスタン最北端にあるクンドゥズで、玄奘一行は一か月滞在した。ここは戒日王の配下にある北インド王国の都である。ここで、高昌国の滅亡と国王・麴文泰の死を知った。玄奘の無念はいかほどであったことか。しかし、このことは『玄奘三蔵伝』には何も記述されていない。〇〇将軍と同じく、筆者の慧立が意識的に削ったのであろう。

高昌国に立ち寄ることができなくなった玄奘は、帰路のルートを変更した。長安までの距離が短いタクラマカン砂漠の南側を通る「西域南道」を選択している。すなわち、カシュガル・ヤルカンド・ホータン・ニヤを経由して敦煌(玉門関)に至るルートである。

カシュガルでの滞在は短い。『大唐西域記』では、「カシュガルの人の性質は乱暴で、俗は詭(いつわり)が多く、礼儀は軽薄で、学芸は浅はかである」と手厳しい。

次のホータン(和田)では、当時のクスタナ国の王様に暖かく迎えられ、この地に十ヶ月も滞在している。カシュガルよりもずいぶん印象が良かったようだ。『大唐西域記』には次のようにある。「クスタナ国(ホータン)は穀作(こくさく)に良く、いろいろな果実が多い。紡績・つむぎに巧みで人々の多くは木綿を着ている。また白玉や黒玉(注・崑崙の玉)を産する。俗は礼儀を知り、人の性格は温和で、好んで学芸に励む。人々は富裕で、家々は業に安んじている。仏教を崇敬し、伽藍百余ヶ所、僧徒は五千余人いる。大部分は大乗教を学習している」

玄奘が十ヶ月もこのホータンに滞在したのは、暖かいもてなしを受け居心地が良かっただけが理由ではない。この地で二つの大事な案件を処理している。これらを片つ”けるのには、たしかに十ヶ月程度は必要だったと思われる。

さきにインダス川を渡った際に、象が溺死していくつかの経典を紛失していた。クチャとカシュガルにお金を充分持たせた使者を送り、これらの経典を補充している。

いま一つは、さらに重要であった。国禁を犯して唐を密出国した玄奘は、太宗皇帝に詫びる必要があり、同時に唐への快い入国許可を得なければならない。さらに、可能であれば皇帝の援助を受けたい。太宗に対する上奏文をしたため、高昌国生まれの馬玄智という青年に託し、何名かのキャラバン隊を編成して長安に向けて出発させた。


このときの上奏文が残っている。

かなり長いものだが、太宗皇帝をその気にさせる見事な内容である。国禁を犯したことを詫びながらも、自己の行動の正統性を述べている。同時に自分がその目的を達したことを伝え、自分の仏教修行・仏典の収集・見聞した情報が、これからの唐にとっていかに重要かを述べている。私が興味深く思ったのは、太宗皇帝のことを褒めたたえ、たっぷりのお世辞を述べている点だ。皇帝とて人である。「人たらし玄奘」の面目躍如たるものを感じる。弘法大師空海が、桓武天皇や嵯峨天皇に上奏した文章もこれに似ている。

ごく一部を引用する。

「長安を出発して天竺に参りました。その間に通った所は五万里におよび、困難危険は山ほどありました。しかし天威(注・太宗皇帝の威徳)のおかげで、どこへ行っても道は開け、手厚い歓迎を受け、身も辛苦をせず、目的を達成することができました」

「今まで見たこともない仏跡を拝観し、聞いたこともない経典を聴聞し、全世界の不思議を見つくしました。各地では唐において太宗皇帝陛下の徳がゆきわたっていることを述べ、人々の陛下に対する思いを啓発してまいりました。こうして周遊すること17年、大河を渡り、パミールを越え、ホータンまで帰ってまいりました。ところが、連れてきた大象が大河で溺死したため、大量の経典を運搬することができません。そのためここに停まり、一刻も早く馳せ参じ、陛下に拝謁いたしたいのですができません。これ以上延期することは堪えられませんので、高昌国から来ている俗人に依頼し、商隊に随行させ上表分を奉り、ご報告申し上げる次第です」

これを読めば、太宗皇帝も悪い気はしなかったであろう。

返事が届くのに7ヶ月かかった。その間に玄奘はホータンの僧侶たちに仏教の講義をおこなった。聴講者は毎回千人を超えたという。太宗皇帝からの返書には歓迎の意が表されていた。

「聞くところによると、法師は遠く西域を歴訪し、いま帰還されたとのこと。朕は歓喜無量である。すみやかに帰国して朕と会見せよ。クスタナ国(ホータン)の僧で梵語や経典を解する者も自由につれて来られよ。朕はすでに沿道の国々に法師を保護するよう命じた。人足や駅馬も不足しないよう手配した。敦煌の役人にも流沙まで出迎えさせる」










2026年1月13日火曜日

玄奘三蔵の話(2)

「天竺でのできごと」

 シルクロードのものがたり(90)

玄奘は仏教を学び仏典を収集するためにインドに渡った。しかし、すでにその頃インドにおいては仏教は衰退のきざしを見せはじめていた。

宮廷の保護を受け、宗教としての存在感は保っていたものの、民衆のあいだではバラモン教に土着の信仰が加わったヒンズー教が勢力を拡大しつつあった。いま一つ、商人を中心にジャイナ教という宗教が存在感を増していた。このジャイナ教の信者は現在でもインドに500万人いて、日本の神戸にもジャイナ教の寺院があると聞く。どのような教義かは知らないが、中野にあるカレー屋のインド人オーナーに聞いたら、ジャイナ教の信者は菜食主義者だと言っておられた。イスラム教がインドに入るのは8世紀初頭というから、玄奘がインドに渡った80年ほど後である。

少し古いが2011年の統計によれば、インドの宗教概況は次のようである。ヒンズー教(79.8%)、イスラム教(14.2%)、キリスト教(2.3%)、シク教(1.7%)、仏教(0.7%)、ジャイナ教(0.4%) 仏教徒は少ないながらも、今なお滅亡せずに信者が残っている。ジャイナ教の2倍、約1000万人もの信者がいるそうで、他国のことではあるがなんだか心強く嬉しい気がする。


「玄奘がインドに入国したとき、仏教は衰退のきざしを見せていた」ということに、私は強い関心を寄せている。この事実が、玄奘に強い危機感を抱かせ、仏教の研究と仏典の翻訳に全力投入させるエネルギーとなったのだと思う。

同じようなことが、日本から仏教を学ぶために唐に渡った最澄・空海・円仁・円珍にもあてはまる気がする。最澄・空海が唐に渡ったのは803年だ。玄奘が長安に帰国した158年後である。じつはこの頃、唐においては、「大きく花開いた仏教は衰退のきざしを見せ始めていた」のである。最澄の弟子の円仁が入唐したのは839年、円珍は853年だが、この頃には「あきらかに廃仏の動きが中国内にあった」ことが円仁の『入唐求法巡礼行記』の中に読み取れる。

ただし、この廃仏運動に対する反発エネルギーなのか、この頃、黄檗・臨済・洞山・趙州といった骨太の大物禅僧が続出している。困難との遭遇によって人は偉大になるのかも知れない。そして、これら仏教の新しい流れである禅宗は、栄西や道元、そして南宋から日本に亡命して鎌倉幕府に保護された中国人僧・無学祖元(仏光国師)などによって、ごっそりと日本に導入されている。

奈良時代末期から平安時代の日本人僧は、日本で仏教を学び、それを深める目的を持って唐に渡った。ところが、仏教の聖地であると思っていたかんじんの唐では、すでに仏教は衰退のきざしを見せはじめている。これではいけない。日本に正統の仏教を伝えなければならないと、各人が使命感に燃えて発奮したように思える。

空海の場合、仏教史の流れとして、これがはっきりと読み取れる。真言宗第七祖である青龍寺の慧果(えか)は、短期間で真言密教の奥儀を空海に伝授した。そして、ただちに空海を第八祖に指名して、その直後に慧果は没している。これによって、真言密教の正統は中国ではなく日本に移ったのである。

以上のできごとを合わせて考えてみると、日本という国は、インドで発生して中国で熟成・蒸留された「仏教という普遍的で偉大な宗教」を、いいとこ取りする形で、ごっそりと導入できた、世界でも珍しい幸運な国であったような気がする。


またしても本題からはずれてきた。インドでの玄奘について、大急ぎで紹介したい。


玄奘が5年間学んだのは、インド東北部に位置し、インド仏教の最高学府といわれる「ナンダーラ僧院」である。「オックスフォードやケンブリッジよりも古い世界初の全寮制大学」と表現する人もいる。仏教の聖地で、僧徒は一万人といわれた。玄奘はこの学舎で副主講という立場に昇進している。どのような地位なのか私にはわからないが、この地でも「折り紙付きのエリート」として遇されている。

当時、この地を含む北部インド全域を支配していたのは、ハルシャ・ヴァルダナという実力王であった(在位606-647)。東はベンガル湾、西はアラビア海に至る、北部インドの東西に伸びる肥沃で広大な領域である。文武両面に秀で名君といわれたこの王様を、玄奘は「戒日王・かいじつおう」と記述している。

衰退のきざしが見えていたインド仏教を再建するため、戒日王は玄奘に対して、「貴殿のために100の寺院を建てるからインドにとどまってくれないか」と持ちかけたが、玄奘はこれを断り帰国の途についている。戒日王はやむなく、おびただしい量の金貨・銀貨を玄奘に贈り、彼を護送するようにと、沿道の各地に命令をくだしている。

それにしても、と不思議な思いがする。

高昌国の麴文泰、西突厥のセブグ・カハン(可汗)、そしてインドのハルシャ・ヴァルダといった、そうそうたる実力王たちが、玄奘をここまでサポートした理由はどこにあったのか。風貌が立派で学問があり、かつ人柄が良い。外交能力と政治力も兼ね備えている。これらの言葉をもってしても説明できないような、「なにか特別な魅力」を持っていた人のように思える。

『玄奘三蔵伝』を丁寧に読み、この人の行動をながめていると、次のような特色が私には見えてくる。

玄奘という人は、自分が危険な状態にあっても、相手が信頼できる人物だと思えば、本音をペラペラしゃべっている。用心深さが足りないのではないかと、ハラハラする場面が多々ある。しかし、結果的にこれによって相手から信頼を受け、この若者をなんとかして助けてやろうと相手に思わせている。それでいて、ときには、深く考えて慎重な上にも慎重にものごとを進めている。意識してなのか、それとも無意識なのか、大胆さと慎重さのバランスが絶妙である。

冒険家であると同時に哲学者。高僧であると同時に「生き方の達人」という印象を受ける。二重人格というと言葉が悪いが、その体の中に、二種類の性格を持っていた人のようにも思える。俗っぽく表現すると、「横綱級の人たらし」でもあった。ここで言う「人たらし」とは、「出会う人をことごとく自分の味方に引き込む魅力を持った人」という意味である。

日本史のなかで「人たらしの横綱級」といえば、「行基」「空海」「西行」「北条泰時」「足利尊氏」「豊臣秀吉」などが頭に浮かぶ。

この二百年の日本史では、人たらしの横綱は「西郷隆盛」であろう。大関クラスとして、「坂本龍馬」「伊藤博文」「頭山満」「徳富蘇峰」「山本玄峰」あたりが思い浮かぶが、さてどうであろう。これらの番付は各人の好みによる。




















2026年1月5日月曜日

玄奘三蔵の話(1)

 シルクロードのものがたり(89)


玄奘について、「26歳の玄奘天竺に向かう」という題でこのブログに7回掲載した。そのあとシルクロード方面を9日間ほど旅行した。この旅行で〇〇将軍についての興味深い話を聞いたので、トルファン(高昌国)の玄奘の項で6編ほど追加した。

しかし、それでもまだ、玄奘についての記述は、「尻切れトンボ」の状態にある。かといって、「65歳の法顕天竺に向かう」と同じスタイルで、往路・復路のこまごまとした地名をあげながら細かく語りすぎるのも、読者にとって面白くない気がする。

よって、「高昌国から天竺へ」・「天竺でのできごと」・「天竺から長安への帰路」・「長安での二十年」と、その後の玄奘の動きを4つに分けて紹介し、玄奘の話を終わらせたいと考えている。


「高昌国から天竺へ」

高昌国(トルファン)を出発した玄奘は、30人の供と一緒に天山南路を西に進み、クチャ(庫車・亀茲国)に向かった。この事実から、このときの玄奘の心の内とその決断について考えてみたい。

〇〇将軍と国王・麴文泰の強い誘いにより、玄奘は天山南路に位置する高昌国に立ち寄った。ここまでは一応納得する。しかし、これによって、玄奘は麴文泰からの紹介状と贈物を届けるため、西突厥(にしとっけつ)のヤブグ・カハン(可汗)を訪問する義務が生じた。この国王の居場所は天山山脈の北西部で、現在のカザフスタン南東部、キルギス東部にあたる。すなわち、どこかで天山山脈の峠を越えて北側に出て、天山北路に入る必要がある。

天山北路に入るには、高昌国から馬で6日間の伊吾国にもどるのが一番簡単だ。しかし、たとえ6日間であっても、これでは後戻りになる。「不東・ふとう」(インドにたどり着かなければ中国には戻らない)をモットーとしていた玄奘にすれば、これは面白くない。

いま一つルートがあった。我々がバスで3時間かけて横断した、トルファン・ウルムチ間の200キロの礫(れき)砂漠を北西に進む行程である。ウルムチは天山北路にある町だ。麴文泰が手配してくれた30人の従者と30頭の馬と共に進めば、5-6日でウルムチに到着できたはずだ。しかし、これも実行していない。


玄奘がクチャ(庫車・亀茲国)に向かった最大の理由は、先達・鳩摩羅什への尊敬と憧れの気持ちがよほど強かったからであろう、と私は考えている。

クチャで60日間滞在している。三百年ほど昔の鳩摩羅什の時代には大乗仏教であったクチャの仏教は、このころは小乗が中心になっていた。尊敬に値する高僧に出会うこともできず、史跡を見学する以外は、玄奘にとってクチャ滞在はもの足りないものであった。それでも60日も滞在したのは、天山山脈の雪解けを待つためであった。

天山山脈の、どの峠を通って北側に入ったかには諸説あるが、クチャから西方のマクスに進み、そのあと4000メートルの「ペダル峠」を越えたであろうというのがおおかたの説である。雪解け待ちを急ぎ過ぎたらしい。「7日間の山越えの後、ようやく山路を出ることができた。キャラバンの内、凍病死したものが10人のうち3・4人もあり、牛馬はそれ以上だった」と伝記にある。4割が死んだのなら、同行者30人のうち12人が亡くなったことになる。

西突厥のヤブク・カハン(可汗)は玄奘を大歓迎した。宴会で可汗や大臣は酒を飲んだが、玄奘は葡萄ジュースを飲んだと記録にある。

ゾロアスター教(拝火教)信者の可汗は、「お疲れのところ申し訳ございませんが、少しだけ仏教の教えを授けていただけませんか」と玄奘の前で拝した。可汗は玄奘の説法をうなずきながら聞いたという。そして、中国語と西域諸国の言葉が話せる若者を国内で探し出し、彼を通訳官に任命し、玄奘に同行するように命じた。玄奘が無事にインドに到着できたのは、この青年の存在が大きいとその方面の研究者は言う。青年の名は残っていないが、「長安で数年生活したことがある」との記述がある。

その後、サマルカンド・バーミアンを経由して、アレキサンダー大王も通った有名な「カイバル峠」を越えて、ガンダーラ国のペシャワールに到着した。ここはインダス川の上流に位置する。AD127年に即位した有名なカニシカ王は、ここペシャワールに釈迦の遺骨を納めるストゥーパ(仏舎利塔)を建て、この地を仏教研究の中心都市に発展させた。現在の世界地図ではここはパキスタン領であるが、当時の認識ではここはまぎれもない「天竺」であった。

当時の「天竺」は、現在の世界地図でいうとインド・アフガニスタン東部・パキスタン・バングラディシュを含む広範囲の地域であったことを、私は最近になって知った。

AD400年頃この地を訪問した私の大好きな僧・法顕(ほっけん)は、「高さは120メートルもあり、その美しさは類を見ない」と仏舎利塔のことを賞賛している。しかし、AD631年に訪れた玄奘は、「ペシャワールの仏教寺院はかなり荒廃している」と記録している。

玄奘が長安を出発したのは629年の8月だ。天竺に到着するのに2年を要したことになる。631年といえば、マホメッドが没する1年前である。イスラム教はまだインドには入っていない。


高昌故城(トルファン)の玄奘像