2026年7月16日木曜日

江戸時代の定年(2)

ここでは、おもに幕末の佐賀藩を例に、当時のサムライの副業について見ていきたい。

GDPが伸びなかったから、二百数十年間ほとんどのサムライの家禄は変わらなかった。武士階級はインフレに悩まされていた。尊王攘夷という思想だけでなく、このあたりにも、もしかしたら明治維新の本質的な原因があったのかも知れない。

佐賀藩には枝吉神陽という立派なサムライがいた。この人は江戸の昌平黌に留学して舎長になり、佐賀にもどり藩校・弘道館の教授になった。「佐賀の吉田松陰」と呼ばれたこの人は、藩校の教授と同時に自分の私塾を経営している。枝吉神陽がコレラで急逝した後、実弟の副島種臣がこの私塾を引き継いだ。大木高任・江藤新平・大隈重信・山口尚芳・久米邦武・香月経五郎などの佐賀藩の英傑たちは、この私塾の門下生である。

枝吉神陽・副島種臣の兄弟が、佐賀藩の若者を教育して立派な人材を育てるという崇高な志を持っていたことは間違いない。しかしそれと同時に、経済的な理由でこの私塾を経営したのではあるまいかと私は考えている。

大隈重信の家禄120石を別格にすると、大木高任45石、枝吉神陽30石、副島種臣15石などの家禄を見ると、経済的には楽ではなかった。江藤新平の場合、なんと家禄7石と記録に見える。これは極貧といってよい。

佐賀藩ではないが、勝鱗太郎だったか福沢諭吉だったか、もしかしたら両者だったかも知れない。知人から英語の辞書を借りてそれを写して二冊の英和辞典を作った。一冊を手元に置き、あとの一冊を3両で売ってお金を得たと聞いたことがある。英語の勉強と同時に収入を得ていた。さすが後世に名を残すだけの人だ。あっぱれだと思う。

佐賀藩士、香月経五郎・三郎兄弟の父親は香月三之允という人だ。幕末にこの人が描いた「拝殿 天井絵馬」が佐賀県有田町の山田神社に奉納され、町の重要文化財として保存されている。この神社は平安時代からこの地を領有していた松浦党有田氏の神社で千年近い歴史を持つ古社である。この人は香月洞谷(淡水)という雅号を持っていた。大正9年に時の宮司であった椎谷孟保氏が著した『山田宮沿革誌』には「狩野派の画伯にて鍋島藩の武士であった香月洞谷がこれを描いて奉納した」とある。この人は当時、代官のような立場で佐賀からこの地に派遣されていたようだ。代官様みずから「俺が描いてやる」とおとこ気を出されたのであろう。本人は経済的には豊かで、「奉納」であるから当然無報酬だったと思う。副業の話からは少しずれるが、江戸時代には、渡辺崋山だけでなくプロ並みの画伯サムライが多くいたことを伝えたく、この話を披露する。

サムライ身分ではないが、伊能忠敬の生き方も興味深い。婿入りした下総の造り酒屋の再興を終えた後、50歳で隠居した。江戸に出て高橋至時という若い先生に入門して、5年間、天文学・測量・地理の勉強をした。55歳のとき蝦夷地の正確な地図をつくるため、江戸を出発して北へ向かった。その後日本列島の海岸線全域を測量して歩き、きわめて正確な「大日本沿岸海與地全図」を幕府に納めている。74歳で没したこの人は、いわば一人で二人分の人生を体験したといって良い。素晴らしい生き方だと思う。

人は、役所や会社が決める定年という概念の中で生きるのではなく、自分に合った生活スタイルの中で、70でも80でも、あるいは90歳でも、元気なうちは働き続けるのが良いと、私は思っている。


1・2年前まで「失われた30年」という、日本の経済成長のなさを揶揄するような言葉がよく使われていた。私はこの言葉に反発する気持ちを持っていた。GDPの拡大・所得の増加・株価の上昇だけをもって善とする、品のないアメリカ式の考え方に日本人が染まってきたことへの反発と嘆きの気持ちである。

この論法でいえば、江戸時代は「失われた270年」ということになる。事実は決してそうではない。戦乱のない平和・文化芸術の興隆・世界に類を見ない国民の高い識字率・高い道徳観、これらがあったからこそ、明治維新後、短期間を持って西欧文明を導入することができたのだと考えている。

GDPの拡大はなかったが、この30年間、日本では国家分断のきざしは見えていない。言論の自由が保障された国であるから、人それぞれの考えや主張は異なる。それはそれで良い。しかし、アメリカをはじめとする西欧の国々に比べて、国民の意思はけっこう統一されている気がしている。これは素晴らしいことであり、同時に日本の強みであると考える。日本人が謙虚な気持ちを失わないで前向きに努力を続ければ、今後30年の日本の将来は明るいのではないか。私は日本の将来を楽観している。

ただ、一つ解決しなければならないことがある。現在のアメリカの属国という立場から、平和的な方法によって、普通の独立国家にもどる必要がある。真の独立国になりたい。あの戦争に敗北してあと20年で100年になる。そろそろ、この問題をかたずけなくてはいけない。私はこれは可能だと考えている。

吉野山 下千本の桜









2026年7月9日木曜日

江戸時代の定年(1)

 江戸時代の定年についてながめてみたい。この時代の定年は、幕府や藩が定めたのではなく自分自身が決めていたようだ。表向きは江戸時代の定年はずいぶん早い。各人それぞれなので、正確には言えないが、おおざっぱな数字でいえば45歳とか50歳ではあるまいか。

それは、武士階級では50歳ぐらい、早い人では45歳ぐらいで「隠居」していたからである。江戸時代のサムライの家禄は、よほど大手柄を立てないかぎり、何百年間も変わらなかった。理由はGDPが増えなかったからだ。しかし貨幣経済なのでインフレはあった。よって、幕末のサムライの多くは副業(アルバイト)に精を出していた。

江戸時代中期の少し前、全国の多くの大名が、堤防を築いて干拓をし、また荒野を開墾して田畑を増やすべく努力している。これにより、ある程度の国土の農耕面積は拡大している。しかし世界各地に植民地を獲得し、また産業革命に成功したオランダ・イギリスをはじめとする欧州列強のような、急激なGDP増加と人口増加は江戸時代の日本では起きていない。

当時は結婚が早かった。父親が50歳になると長男が30歳を超えることも珍しくなかった。30を過ぎた息子を無職でブラブラさせるわけにはいかない。父親が隠居して長男に家督をゆずるケースが多くなる。武士階級のこのようなやりかたを、豪商たちも真似るようになる。


鬼頭宏という歴史人口学者が書いた『人口から読む日本の歴史』という良書がある。これによると、慶長5年(1600)の日本の人口は3128万人、246年後の弘化3年(1846)は3230万人とある。ちなみに、この本には明治6年3330万人、大正9年5596万人とある。GDPが増えないから二百数十年間、人口が増えなかったわけだ。

興味をそそられるのは、若くして隠居した(定年になった)サムライたちが何をしたかということだ。もちろん、本当に隠居して盆栽の手入れをしたり、歌舞伎などの芸能を楽しみながらブラブラ遊んだ人もいたであろう。

しかし、隠居したあとも、多くのサムライたちは何かしら仕事をしていたようだ。剣術指南や四書五経を教える儒学の師匠、このあたりは常識的である。絵師・書家・和歌俳諧の師匠になったサムライも多い。なかにはヘンテコな仕事を始めた人もいる。古典落語に「あくび指南」という演目がある。あくびの仕方を教えてお金を取っていたサムライがいたとういうから驚く。

ユーチューブで、「小三治 あくび指南」と検索するとこれを聞くことができる。何人もの噺家の「あくび指南」があるが、小三治が群をぬいて面白い。


談山神社の桜







2026年7月2日木曜日

奈良時代・平安時代の定年

 奈良時代・平安時代、日本人は定年というものについてどのように考えていたのか。これを振り返ってみたい。その頃は株式会社というものはないので、該当する人々は役人ということになる。農民や漁民・商工業に従事する人々は、元気であれば、いわば死ぬまで働いていたという認識で正しいと思う。

月一回、数日間、郷里広島県の農園で畑仕事を続けている私には、現在でも農村では昔と変わらないように思える。元気な者は80歳でも85歳でも働いている。90を超えて畑仕事をしている人は私の村には何人もいる。ポツンと一軒家だけでない。日本全国の農村・山村・漁村では、同じように80歳を過ぎた人が数多く働いている。


「奈良時代の役人の定年70歳」という題で7年ほど前このブログに掲載したので、重複は避けたい。ポイントを整理すると次のようになる。

①奈良時代の中央官庁の役人(国司・現在の県知事・を含む)の定年は70歳だった。これは唐の律令制度をそのまま導入したからである。

②かたや、地方の役人(郡司およびその部下たち)の定年はなかった。飛鳥時代・奈良時代には70代・80代の老齢の、中には認知症でよぼよぼした、地方役人が何人もいたのだ。

大化の改新のあと、天智天皇と中臣鎌足は中央集権国家をつくったのではあるが、それは地方豪族たちの協力(サポート)を前提としていた。西欧と異なり大和朝廷の基本方針は、敵対する者を皆殺しにして絶対的強権を持つのではなく、地方豪族たちの協力と支持のもとに、共に存在しようとしたゆるやかな政権であった。「和をもって尊し」を基本としたようだ。

よって、大化の改新の後、大和朝廷は地方の有力豪族たちの反乱を恐れていた。彼らの職を奪うことへの反発を極度に恐れていたのだ。それゆえに、定年無しの障害を承知の上で、郡司以下の地方役人たちの人事をすべて地方豪族に一任している。郡司以下の地方役人に70歳の定年制が導入されたのは、じつに、大化改新から89年後の聖武天皇の御代・天平6年(734)4月26日のことだと、『続日本紀』は記している。この頃になってやっと、大和朝廷の権力基盤は盤石となったのだ。


平安時代末期のサムライの話をしたい。これを「定年」という言葉でいうのはどうか、とも思うが、89歳で死んだこのサムライはその死の瞬間までバリバリの現役であったことを考えれば、「89歳で現役を退いた」というのは間違いではない。

私はこの話が気に入っている。物語的なタッチになるが、このサムライ・三浦大介義明(みうらのおおすけ・よしあき)のことを紹介したい。

源頼朝が伊豆で挙兵したのは、治承4年(1180)8月である。平家側の反撃により敗北した頼朝は、相模湾をわたり安房に脱出すべく、落ち武者たちと共に小舟で真鶴港を出帆した。

平家側から頼朝寄りと見られていた三浦大介は、このとき三浦半島の衣笠山の城にいた。頼朝は「支援を頼む」、と使者をこの城に派遣していた。平家側は多数の軍勢をもってこの衣笠城を攻撃した。ここから先は、迫力ある司馬遼太郎の筆にゆだねたい。


三浦大介義明はこの城のそばで生まれ、ここで死んだ。生涯は89年で当時としては奇跡のような長寿である。大介は病床にいた。床(とこ)を払わせ、一族をあつめ、戦え、と命じた。「われらは累代の源氏の家人(けにん)である」ともいったらしい。一日、平家側との攻防戦があった。

夜に入って大介義明は子供らを招き、「わしは十分に生きた」と言い、このわし一人をこの城にのこせ、といった。一同は海へ落去せよ、しかるのちに佐殿(すけどの・頼朝)をさがし、御行末(おんすえ)を共にすべし、と命じた。これは、わしの命令(げち)である、抗(あがら)うな、とも言った。一同は、結局そのようにせざるをえなかった。翌朝、義明はわずかな郎党とともによく戦い、やがて自刃した。城は落ちた。

落人の頼朝は、いまの東京湾口を小舟で漂っていた。そこへ衣笠城からきた三浦勢と海上で出会う。たがいに、奇跡だった。その上、三浦勢は無傷の新鮮な兵力であり、そのおかげで、房総半島に上陸しても、土地の者たちからあなどられずに済んだ。頼朝は、この海上での邂逅を、終生わすれなかった。

はるかのち、頼朝は、三浦大介義明の十七忌がこの衣笠山で営まれたとき、鎌倉から来、墳墓に拝礼した。そのとき、頼朝は、生ける大介に語りかけるように、「私はあなたとともに生きている」と、ふしぎなことをいった。どうやら論理的にいえば、あなたはあのとき死んだのではない、私とともにこの十七年生きてきた、私はそのようにみなす、という意味だったらしい。

この時代、恩賞は、生者に厚く死者に薄かった。頼朝は義明を生者とみて、その菩提寺に多くの禄を寄進したのである。義明の死は数え年89だった。それに17年足せば百六つになる。江戸時代のめでためでたやの門付け歌の、「鶴は千年、亀万年、三浦大介百六つ」の「三浦大介百六つ」が鶴や亀よりもめでたいとされるのは、死んでもなお生けるがごとく禄をもらったからというのである。


吉野山 奥千本の桜 西行庵前