奈良時代・平安時代、日本人は定年というものについてどのように考えていたのか。これを振り返ってみたい。その頃は株式会社というものはないので、該当する人々は役人ということになる。農民や漁民・商工業に従事する人々は、元気であれば、いわば死ぬまで働いていたという認識で正しいと思う。
月一回、数日間、郷里広島県の農園で畑仕事を続けている私には、現在でも農村では昔と変わらないように思える。元気な者は80歳でも85歳でも働いている。ポツンと一軒家だけでない。日本全国の農村・山村・漁村では、同じように80歳を過ぎた人が数多く働いている。
「奈良時代の役人の定年70歳」という題で7年ほど前このブログに掲載したので、重複は避けたい。ポイントを整理すると次のようになる。
①奈良時代の中央官庁の役人(国司・現在の県知事・を含む)の定年は70歳だった。これは唐の律令制度をそのまま導入したからである。
②かたや、地方の役人(郡司およびその部下たち)の定年はなかった。飛鳥時代・奈良時代には70代・80代の老齢の、中には認知症でよぼよぼした、地方役人が何人もいたのだ。
大化の改新のあと、天智天皇と中臣鎌足は中央集権国家をつくったのではあるが、それは地方豪族たちの協力(サポート)を前提としていた。西欧と異なり大和朝廷の基本方針は、敵対する者を皆殺しにして絶対的強権を持つのではなく、地方豪族たちの協力と支持のもとに、共に存在しようとしたゆるやかな政権であった。「和をもって尊し」を基本としたようだ。
よって、大化の改新の後、大和朝廷は地方の有力豪族たちの反乱を恐れていた。彼らの職を奪うことへの反発を極度に恐れていたのだ。それゆえに、定年無しの障害を承知の上で、郡司以下の地方役人たちの人事をすべて地方豪族に一任している。郡司以下の地方役人に70歳の定年制が導入されたのは、じつに、大化改新から89年後の聖武天皇の御代・天平6年(734)4月26日のことだと、『続日本紀』は記している。この頃になってやっと、大和朝廷の権力基盤は盤石となったのだ。
平安時代末期のサムライの話をしたい。これを「定年」という言葉でいうのはどうか、とも思うが、89歳で死んだこのサムライはその死の瞬間までバリバリの現役であったことを考えれば、「89歳で現役を退いた」というのは間違いではない。
私はこの話が気に入っている。物語的なタッチになるが、このサムライ・三浦大介義明(みうらのおおすけ・よしあき)のことを紹介したい。
源頼朝が伊豆で挙兵したのは、治承4年(1180)8月である。平家側の反撃により敗北した頼朝は、相模湾をわたり安房に脱出すべく、落ち武者たちと共に小舟で真鶴港を出帆した。
平家側から頼朝寄りと見られていた三浦大介は、このとき三浦半島の衣笠山の城にいた。頼朝は「支援を頼む」、と使者をこの城に派遣していた。平家側は多数の軍勢をもってこの衣笠城を攻撃した。ここから先は、迫力ある司馬遼太郎の筆にゆだねたい。
三浦大介義明はこの城のそばで生まれ、ここで死んだ。生涯は89年で当時としては奇跡のような長寿である。大介は病床にいた。床(とこ)を払わせ、一族をあつめ、戦え、と命じた。「われらは累代の源氏の家人(けにん)である」ともいったらしい。一日、平家側との攻防戦があった。
夜に入って大介義明は子供らを招き、「わしは十分に生きた」と言い、このわし一人をこの城にのこせ、といった。一同は海へ落去せよ、しかるのちに佐殿(すけどの・頼朝)をさがし、御行末(おんすえ)を共にすべし、と命じた。これは、わしの命令(げち)である、抗(あがら)うな、とも言った。一同は、結局そのようにせざるをえなかった。翌朝、義明はわずかな郎党とともによく戦い、やがて自刃した。城は落ちた。
落人の頼朝は、いまの東京湾口を小舟で漂っていた。そこへ衣笠城からきた三浦勢と海上で出会う。たがいに、奇跡だった。その上、三浦勢は無傷の新鮮な兵力であり、そのおかげで、房総半島に上陸しても、土地の者たちからあなどられずに済んだ。頼朝は、この海上での邂逅を、終生わすれなかった。
はるかのち、頼朝は、三浦大介義明の十七忌がこの衣笠山で営まれたとき、鎌倉から来、墳墓に拝礼した。そのとき、頼朝は、生ける大介に語りかけるように、「私はあなたとともに生きている」と、ふしぎなことをいった。どうやら論理的にいえば、あなたはあのとき死んだのではない、私とともにこの十七年生きてきた、私はそのようにみなす、という意味だったらしい。
この時代、恩賞は、生者に厚く死者に薄かった。頼朝は義明を生者とみて、その菩提寺に多くの禄を寄進したのである。義明の死は数え年89だった。それに17年足せば百六つになる。江戸時代のめでためでたやの門付け歌の、「鶴は千年、亀万年、三浦大介百六つ」の「三浦大介百六つ」が鶴や亀よりもめでたいとされるのは、死んでもなお生けるがごとく禄をもらったからというのである。
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| 吉野山 奥千本の桜 西行庵前 |
