77歳の則天武后に拝謁して宴(うたげ)を共にしたとき、真人は何歳だったのであろうか?
生年不詳の人物を、松本清張なみの推理をはたらかせると、この時59歳だった、と考える。もしそうであれば、養老3年に没した時は76歳となる。
そう考える理由は、この人が「白雉4年(653)の第2次遣唐使の時、留学僧として長安に渡った」ことが「日本書紀」に書き残されており、この時10歳、と私は推測する。
「若すぎる」と言わないでほしい。
この時一緒に唐に渡ったのが、中臣鎌足の長男(すなわち不比等の兄)の僧名「定恵・じょうえ」であり、この時10歳である。この人の生年は643年(大化改新の2年前)と記録にあるから、定恵が10歳で入唐したのは間違いない。
この定恵は665年9月、22歳の時、朝鮮半島経由で帰国したが、同年12月大和国で亡くなっている。病気説・暗殺説の両方がある。本来20年間の予定の留学僧が12年で帰国したのは、2年前の「白村江の戦」の敗北にその理由があるような気がする。この時、真人はこの鎌足の長男と一緒に帰国したのではあるまいか。
「日本書紀」には、鎌足の長男が「定恵」とその僧名で記録されているのに対して、真人のことは「春日粟田百済之子」と記されている。粟田真人は百済系の渡来人の子孫、というのは学者の一致した見解である。父親の名前が「粟田百済」というのだから、これは間違いない。
「定恵」のほうは父親が偉い人(中臣鎌足)だから名前が書き残されたとの想像もできるが、真人のことを、「春日粟田百済之子」と表記していることからして、真人は定恵よりもさらに2・3歳年少の7・8歳の少年だった可能性がある。
津田梅子は満6歳で渡米した。
これを考えると、昔から「語学を学ぶには若いほど良い」というのは常識だったのであろう。余談だが、少年僧・真人の僧名は「道観」といい、帰国後に還俗している。当時は便宜的に僧のほうが留学が容易だったようである。
粟田真人が則天武后に拝謁した時の情景は、次のようだったのではあるまいか。
「冠(かんむり)のいただきは花形で、四枚の花びらが四方に垂れていた」と「旧唐書」はいう。花の色彩は赤だったのか、ピンクだったのか?トランプさんの真っ赤なネクタイよりもさらに派手な格好で、粟田真人は則天武后の前に姿をあらわした。
文武天皇からの信任状と国書を手渡すと同時に、あいさつの口上を述べた。
則天武后は、そのハンサムで気品あふれるな風貌と、中国人顔負けの流暢な中国語に魅了された。儀式が終わり宴席に移り、真人は則天と対面する。
則天が発した第一声は、
「あなた、なぜそんなに中国語がお上手なの?」であったかと思う。
「じつは、653年の第2次遣唐使の時、私は幼少ながら学問僧の一人として入唐し、この長安の地で12年間勉強しました」
「あら、そうだったのね。道理で中国語が上手いはずね。私もその時、夫の高宗と一緒にみなさんとの会食の席に参加しました。そういえばあの時、10歳の子供でお国の偉い大臣、そう中臣のなんとか言ったわね、その息子さんがいらしたわね。その隣にちょこんと座っていた可愛い坊やがあなただったのね!」
その時、則天武后28歳であった。
「中国史上最大の権力者」、「英知・残虐性とも超弩級」、「呂后・西太后をしのぐ中国三大悪女の筆頭」ともいわれるこの人には、「知性あふれる絶世の美女」との伝承もある。
「則天さまの花も恥じらうほどの美貌には、少年の私も胸をときめかしておりました」
ぐらいのお世辞は、真人なら言ったかと思う。
このような会話から始まり、宴会は大いに盛り上がっていく。
こうしたやりとりの中で、77歳の超実力女帝の胸に、18歳年下の異国の若い男(といっても59歳であるが)に対する「熟年の恋」に似た感情が芽生えたのではあるまいか。
真人をすっかり気に入った則天は、担当の大臣を呼び、「真人さんにはわが国で働いていただきます」と言って、すぐに「司膳卿」という大臣級の辞令を出させた。
並みの外交官なら、「それは困ります。私は任務が終わったら国に帰らねばなりません」と辞退するところだが、そこは大物・粟田真人である。
「ありがたき幸せ」とにっこり笑って、その辞令を受け取ったのだと思う。
事実「旧唐書」にはそう書いてある。
「則天が自分に好意を持ってくれたのは判った。この辞令は受けたほうが良い。そうすれば、今後頻繁に則天に会うことが出来る。帰国のことなど、おいおい改めてお願いすれば良い」と真人は考えた。
のちの阿倍仲麻呂の例もある。もしかしたら、真人はこの「司膳卿」の仕事を半年ほど長安の都でこなしたのかも知れない。
そして10回も20回も、真人は則天と夕食の宴を共にする。
どこかの時点で、真人は則天に対して甘える仕草をしたのかも知れない。
「大宝律令のことで、お国の大臣が細々としたことを聞いてくるので困っています。則天さまのお力でなんとかして頂けないでしょうか?」
彼女はすぐさま宰相と担当大臣を呼びつける。
「立派な律令ではありませんか。真人さんがこれだけ丁寧に説明しておられるのですよ。これ以上重箱の隅をつつくような事をして真人さんをいじめると、私は許しませんからね!」と一喝する。
同時に、
「今日以降、倭国と呼ぶことは許しません。真人さんがこれだけ懇願されているのです。このまま倭国という言い方を続けていたのでは、お国に帰られたあと真人さんの面子がつぶれます。
私は皇帝の権限で、今日以降、同国のことを日本国と呼ぶことに決定します」
と一方的に命令を下した。
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