20年以上も昔に読んだ文章を、ふと思い出すことがある。
これも、その一つである。
ご本人が新聞に寄稿されたものだと記憶する。写していたノートを最近開いてみた。
大分県に住む宮田誠さんという方の寄稿文で、昭和18年生まれとメモしてあるので、現在は75歳だと思う。きっとお元気で、ここに出てくるお姉さんも80代前半で、お元気であられると想像する。
本人の了解を得たほうが良いと思ったのだが、連絡先が分からない。
そんなこと必要ありませんよ、とおっしゃってくださる人柄の方だと思い、お二人の幸せを祈りながら、このブログでご紹介したい。
昭和22年の春。
当時、私の家族は祖父母・父母・姉3人・3歳の私と弟の9人で、大分県に住んでいました。
日々の暮らしは手探りの中で、台所事情もゆとりはありません。
一家を担う父は、大分県の庄内町の父の実家に食料の調達に行くことになりました。実家では収穫した農産物を準備していてくれました。血縁ならではの厚意です。
父は別府の脇浜から徒歩で高崎山の裏を越えてゆきます。
ひとりでの山越えは少し寂しかったのか、10歳の二女を誘いました。少女には無理な道程なのは言うまでもありません。父は途中でグズれば背負って行けばよいと考えながら家を出ました。
急な山道の鳥越峠を越え、幾重にも折れ曲がった古賀原、赤野を過ぎ由布川を渡り、庄内町の小野屋からさらに雨乞岳の東側の奥深い集落に父の実家はありました。
二女は小さな意地で頑張りとおし、一度も甘える仕草を見せずにたどり着きました。父のかたわらに、おかっぱ頭のリンゴのホッペをした少女が、ちょこんと立っていました。
実家ではびっくりして、胸を詰まらせました。イガグリ頭のいとこたちが珍しそうに土間からのぞいていました。
翌朝荷造りを終え、帰路に発つ際、父の長兄の嫁は二女に「途中でお食べ」と、ゆで卵ふたつを小さな手のひらに乗せてくれました。
当時の卵は生産が少なく、ぜいたくなものでした。
何よりの心つ゛くしを大事にポケットにしまい、二女は家路に向かいました。帰路は荷物が多い。
家族への土産で、二女の小さなリュックも満杯でした。
往きにくらべて休憩は増えます。またしばらく長い距離の山道を歩き、別府湾が一望の峠で足を休め、額の汗をぬぐいました。我が家へはあとひと踏ん張りです。父娘はたわいのない話をします。
二女はもらったゆで卵をまだ口にしていません。
ついぞ食べる様子がないので、父は理由を聞きました。
すると二女は、「弟ふたりに食べさせてあげたい」と、笑顔で言いました。
「お前がもらったのだから」と父は何度もすすめたが、二女は結局、口にしませんでした。
その二女も元気で還暦を迎えます。
今でもゆで卵を目にすると、昔母から聞いた話が、古びた記憶と共によみがえります。
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