2019年6月20日木曜日

日本一の外交官・粟田真人

日本史上最高の外交官は誰かと問われたら、粟田真人(あわたのまひと)だと答える。
陸奥宗光・小村寿太郎・広田弘毅の3人が束になっても、粟田真人一人に勝てない気がする。

その理由はあとで述べるが、まず「続日本紀」に出てくる粟田真人の箇所を紹介したい。

文武天皇の慶雲元年(704)の記述に次のようにある。

秋七月一日、正四位下の粟田朝臣真人が唐から大宰府に帰った。
初め唐に着いた時、人がやってきて、「何処からの使人か」と尋ねた。そこで、「日本国からの使者である」と答え、逆に「ここは何州の管内か」と問うと、「ここは大周の楚州塩城県の地である」と答えた。真人が更に尋ねて、「以前は大唐であったのに、いま大周という国名にどうして変わったのか」というと、「永淳二年に天皇太帝(唐の高宗)が崩御し、皇太后(高宗の后・則天武后)が即位し、称号を神聖皇帝といい、国号を大周と改めた」と答えた。

問答がほぼ終わって、唐人側の使者が言うには、
「しばしば聞いたことだが、海の東に大倭(やまと)国があり、君子国ともいい、人民は豊かで楽しんでおり、礼儀もよく行われているという。今、使者をみると、身じまいも大へん清らかである。
本当に聞いていた通りである」と。言い終わって唐人は去った。


これは粟田真人が朝廷に報告した通りを、記録官が書いたものである。
真人の自画自賛もあるやも?と当初考えたのだが、「旧唐書(くとうじょ)」の「列伝・倭国・日本」の項に次のようにあり、これが真実であることを知った。


長安三年(703)、その大臣の朝臣真人、来たりて方物を貢す。
朝臣真人は、猶(なお)中国の戸部尚書(こぶしょうしょ・民部の長官)のごとく、冠は徳冠(とくかん・最も勝れた徳の者に与えられる冠)に進み、その頂は花をなし、分かれて四散し、身の服は紫袍(しほう・紫色の上着)、帛(きぬ)を以て腰帯をなす。
真人は経史(けいし・経書と歴史書)を読むを好み、文を属(つつ゛)るを解し、容止(ようし・身のこなし、ふるまい)は温雅(おんが・おだやかで奥ゆかしい)なり。
則天(則天武后)は宴(うたげ)して、麟徳殿(りんとくでん)に於いて司膳卿(しぜんきょう・官命)を授け、本国に還(かえ)るを放(や)める。
(鳥越憲三郎博士による読み下し文)


大宝2年(702)6月29日、第7次遣唐使船は北九州を出帆した。
当時、新羅との関係が悪く、朝鮮半島に沿って航海した過去6回の北ルートと異なり、南航路で一気に大陸を目指した。中国の楚州の海岸に到着したのは8月か9月頃と想像する。
陸路長安に向かい、則天武后に拝謁したのは703年の正月である。

帰路は五島列島の福江島に漂着し、704年7月1日に大宰府に帰着報告している。
これらから、真人が都・長安に滞在したのは、1年を超えたと思われる。

粟田真人は文武天皇より「節刀(せっとう)」を与えられ、節刀使と呼ばれ、この時の遣唐大使・高橋笠間より上席であった。もっとも、高橋笠間はどのような理由かわからないが、出発直前に辞任して、副使の坂合部大分という人が大使に昇格している。


この時、真人には重大な使命が二つあった。

一つは、40年前の「白村江の戦」の終戦処理をおこない、唐と正式に国交を回復して、残っている老齢の日本人捕虜を連れ帰ることである。敗戦のあと、さみだれ式に捕虜たちは帰国していたが、正式な国交回復はなされていなかった。

いわば、太平洋戦争の敗戦処理を行い、戦後憲法を作り、講和条約までこぎつけた幣原喜重郎・吉田茂の役目、日中国交回復を果たした田中角栄の役目、北朝鮮から5人の日本人を連れ帰った小泉純一郎の役目、を担っていたといえる。

いま一つは、さらに「困難かつ重要」な役目である。

完成したばかりの「大宝律令」を唐側に見せて、「これだけの律令を完成させて立派な法治国家になった」ことを認めてもらい、今までの「倭国」、「倭国王」の呼び方を、「日本国」、「天皇」との呼び方に変えてもらうべく、唐側を説得することであった。

「大宝律令」を見せて、「このような律令を作りました」だけでは唐側は納得しない。
唐の専門家から、その内容や漢文の表現に至るまで、細かい質問をされることは、大和朝廷としては想定していた。

「大宝律令は忍壁(おさかべ)親王・藤原不比等・粟田真人らが中心になって編纂した法令集」と高校時代の日本史で教わったが、実務を仕切った中心人物はこの粟田真人である。
藤原不比等が唐に行っても、法律の専門知識・語学力の両方からして、唐側の質問に対して充分な返答ができない。

「粟田先生、他に人がおりません。なにとぞよろしくお願い致します」
と、時の政界の最高実力者・藤原不比等は、自分の兄と一緒に唐に留学した12歳年長の真人に丁寧に頭を下げたに違いない。
真人自身、この大役をこなせるのは自分しかいないことを、充分認識していた。

そして、粟田真人はこの二つの大役を「パーフェクト」にやり遂げて帰朝する。

なぜ真人は、これに成功したのか?

答えは、
「中国史上最大の権力者といわれる則天武后が、異常なまでに粟田真人を気に入ったから、の一言に尽きる」と私は考えている。


粟田真人という人は、「才と徳」とを兼ね備え、人間的な深みを持ち、魅力に満ち溢れた人物だった。それに加えて、大柄でハンサムな人であったらしい。




























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