風光明媚な土地ではあるが、こんな辺鄙な漁村に生まれた少年が、「見返り美人図」のような上品な美人画を描いたのが不思議な気がする。気になって、東京に戻り少し調べてみた。なるほどそうであったのか、、、と思った。
師宣の祖父は藤原七右衛門といい、代々京都に住んでいた。師宣はあの藤原氏の一族なのだ。父の藤原吉左衛門がこの地に移住して菱川氏を称した。都の貴人がこの僻地の安房国・保田郷に移り住んだのには、よほど深い物語があったに違いあるまい。
もしかしたら、慶長20年(1615)に徳川幕府が制定した「公家諸法度」により、京都の公家の生活が困難になったのであろうか。師宣がこの地で生まれるのは、その4年後の元和4年(1618)である。
師宣の母親は、この安房・保田郷から藤原氏に行儀見習いに来ていた地元有力者の娘だったのではあるまいか。「いっそのこと私の故郷の安房に移り住みませんか。米も魚も野菜も充分に採れます。生活には不自由はさせません」と吉左衛門に言ったのかも知れない。
少年の師宣が江戸に絵の修業に行くときは船を使った。良い風だと保田から三浦半島に1-2時間で渡れる。我々のヨットと同じで、順風の南風だと半日で江戸に到着する。
菱川師宣は浮世絵の祖、と聞いていたので、葛飾北斎より40-50年前の人だろうと思っていた。調べてみると、師宣は元和4年(1618)、北斎は宝暦10年(1760)の生まれである。私は昭和23年生まれなので、天保10年生まれの高杉晋作は109歳先輩になる。師宣と北斎の年齢の差はそれよりも30年も長い。
この保田の漁業組合が経営する宿の夕食には恐れ入った。
舟に乗った大量の新鮮なお刺身がどんと出る。捕れたばかりの大きな魚が煮魚・焼き魚・酢の物・お鮨に姿を変え、これでもか、というほど大量に出てくる。3人とも大食漢だが、少々食べ残した。「全部を食べ切る人はめったにいませんよ」と漁業組合の職員でもある給仕の女性が笑いながら言う。
客が食べ残すことを承知の上で、「これでもか」と大量の魚料理でもてなすのが、この土地の流儀らしい。京都からこの地に移り住んだ藤原吉左衛門も、このような「おもてなし」を受けたのであろう。びっくりしながらも、大いに喜んだに違いあるまい。
翌日も順風に恵まれて、午後3時半に浦安のハーバーに戻った。
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