長州藩士の堀誠太郎は、明治元年に東京に出てきて、森有礼の書生になり、英語の勉強をしていた。ここでまた、高橋是清の名前が登場する。
高橋は当時16・7歳の少年だったが、すでに幕末にアメリカでの生活経験があり、森家の書生の中では一番英語が出来た。森は一番年少の高橋一人に英学を教え、高橋が他の数名の年長の書生に教えるというシステムになっていた。
明治3年、24歳の森有礼は抜擢され、アメリカ駐在小弁務使(実質的な公使)として赴任することが決まる。書生たちは皆、森にアメリカに連れて行ってもらいたいと思っていた。
本来なら、一番出来の良い高橋が行くのが妥当なのだが、「堀さんは年齢がいっているので、(森より2歳年上の26歳)この機会を逃すと可哀そうだ」と言って、高橋は自分は辞退して、もう一人の友人の矢田部良吉(コーネル大学卒・東大教授)と堀誠太郎の2人を森に推薦する。この2人は森に同行してアメリカに渡った。高橋是清という人は、ケタ外れの好人物であった。そして、この多くの人々への好意と親切が、後年、高橋自身の身にはね返ってくる。
堀はマサチューセッツ農科大学でクラーク博士のもとで学位を取り、クラークが札幌農学校教頭に決まったので、通訳兼農学校職員という肩書で札幌に赴任する。
クラーク博士が札幌を去る時の有名な絵が残っている。ニ頭の馬に乗った右側がクラークで、見送りの学生たちを振り向いて、「ボーイズ・ビー・アンビシャス」と言った。この時、左側の馬に乗っているのが堀誠太郎である。
それから2・3年して、この人は札幌農学校を辞めて、東京大学の植物学の教授に転職しているのが面白い。この堀誠太郎の長男も、後日、一高・東大の教授になり、一高同窓会報で次のように語っている。
「札幌農学校に父が務めていた頃は、川で顔を洗っていると鮭(さけ)や鱒(ます)がやって来たという野蛮な時代でしたので、学生はあまりやって来なかったらしいです。それで父は学生募集によく上京して、予備門の生徒に旨いこと言って引張っていったそうです。学士院会員の宮部金吾先生も、君のお父さんの口の旨いのに皆ひっかかって連れていかれたものだ、と話しておられました」
この長男の証言によれば、堀が第二期学生募集のため、東京大学予備門で演説した時、その時の予備門の校長・服部一三は、長州出身でしかも堀の親戚筋にあたる人だったという。
開拓使と文部省との表向きの喧嘩の裏では、このような人間関係があったらしい。
ウイリアム・クラークという人は、「ボーイズ・ビー・アンビシャス」と言っただけあって、冒険心に富み英雄的行為を好む人だった。南北戦争の時は、北軍の義勇連隊に少佐で身を投じ、英雄的な奮戦をして大佐にまで昇進している。
月給600円で札幌農学校に来た。当時の日本人の給料の最高額は、太政大臣・三条実美の800円である。陸軍大将・西郷隆盛が600円だから、開拓使長官・陸軍中将の黒田清隆よりもクラークのほうが高かった。ちなみに、お雇い外国人の筆頭のフルベッキ・開成学校教頭は600円(明治2年)、フェノロサ・東京大学教師は300円(明治11年)である。
開拓使はクラーク博士を2年間の契約で雇いたかった。これに対して本人は、「2年分の仕事を1年間でやってみせるから、1年で2年分の給料1万4千400円をください」と言ったらしい。かなり山っ気のある人だったようだ。
事実、クラークが札幌に到着したのは明治9年7月31日で、堀誠太郎と共に馬で札幌の地を後にしたのは明治10年4月16日である。札幌滞在は8ヶ月半にすぎない。この短い期間で、学生たちにあれほどの影響を与えたのだから、ただならぬ教育者であったのは間違いない。
気になって、開拓使がクラークに2年分の給料を払ったのかどうか、調べてみたのだがよく分らなかった。
注:この文章を纏めるにおいて、「大志の系譜・一高と札幌農学校」 著・馬場宏明を参考にさせていただいた。
とても面白い記事です。結局クラーク博士は2年分のお給料をもらえたでしょうかね。
返信削除調べてみたのですがよくわかりませんが、黒田清隆という人は結構ふとっぱらだったので、私は払ったのではないかと睨んでいます(笑)田頭
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