2019年9月4日水曜日

札幌から来たヘッドハンター

札幌農学校が開校したのは、明治9年8月14日である。クラーク博士を含む3名の教授をマサチューセッツ農科大学から招聘した。

1期生の定員は24名だったが、英語のできる生徒が少なく、定員に満たない恐れが出てきた。
あわてた北海道開拓使は、文部省に頼み込んで東京英語学校の生徒10名を譲ってもらう。

文部省や東京英語学校にしては不愉快な話である。英語学校を翌年に東京大学予備門に昇格させ、近々開校予定の東京大学に進ませるために、生徒の英語教育に全力を注いでいたからである。

文部省が押し切られたのは、開拓使長官・黒田清隆が豪腕であったことに加え、この時文部大臣・木戸孝允が病気で退任しており、大臣不在で文部省側に実力者がいなかったからだ。

1年後、生徒不足はまたしてもおこり、事態は昨年より深刻だった。開拓使は再び文部省に、英語学校(この時は東京大学予備門)の生徒20名を譲って欲しいと、文書をもって要請する。これに対して文部省は、「札幌農学校へ転学を願う者これ無きなり」と完全な拒否回答をする。

この年から東京大学が開校しており、予備門の一定レベル以上の生徒全員が東京大学に入学できる。「いいかげんにしてくれ!」と文部省が怒ったのは無理からぬことだ。

しかし、学生がいなければ札幌農学校は廃校になる。この時、開拓使長官・黒田清隆の意を受けた1人の壮士が、昼休み中の予備門の教室に乗り込んできて、熱烈な演説を行なった。


その時の生徒で、この演説を聞いてすぐに退学して北海道に渡った宮部金吾(ハーバード留学・北大教授・文化勲章)は、後日次のように述べている。

「明治10年6月14日、東京大学予備門の1級に在学中、開拓使の官使でクラーク氏の通弁を務めておった堀誠太郎という人が学校に来て、1級と2級の生徒なら無試験で札幌農学校に入学を許可する故応募せよと、1時間にわたって面白い演説をした。大いに心を動かされ、意を決して僕とともに札幌農学校に来たのは11名。その中には内村(鑑三)・新渡戸(稲造・旧姓太田)・岩崎(行親)・藤田(九三郎)・足立(元太郎)などがいた」

いかに明治の初期とはいえ、ずいぶん乱暴な話である。一つの国立学校の職員が、自校の学生を確保するために、昼間に他の国立学校に乗り込んで集団退学を促し、ごっそり引き抜いたのである。しかも、これら予備門の生徒は、新設したばかりの最高学府・東京大学に進学できた優秀な生徒ばかりであった。

それを捨てて、11名の若者は未開の地・蝦夷が島に渡った。不思議な話である。












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