公(こう)・候(こう)・伯(はく)の等級は、殷(前1600-前1028)の時代にはすでにあったらしい。周の時代になり、これに子(し)・男(だん)が加わる。爵の等級のことである。
爵とは酒器のことで、玉(ぎょく)製がもっとも尊く、次いで金・銀・銅製や動物の角(つの)製があった。王が諸侯の功績や身分に応じて、それぞれの爵を与えた。爵と封土を与えられたこれらの諸侯は、そのみかえりとして王や皇帝に対して、貢納(こうのう)と軍事奉仕の義務を負う。
約2000年間続いたこの行政システムは、唐の時代になって変化する。爵位の名称は残るが、
行政の権力からは離れていく。
隋の文帝(在位581-604)によって開始された科挙制度が、唐の時代に入りうまく機能をはじめたからである。かつての世襲の諸侯ではなく、学科試験に合格した人材を、中央と同時に各地方長官に任命するようになる。短命ではあったが、隋という王朝は革命的な行政改革をなした王朝といえる。
後漢の光武帝(在位25-57)が北九州にあった奴国(なのくに)の支配者に、「漢委奴国王印・かんのわのなのこくおうのいん」の金印を与えたのは西暦57年のことだ。邪馬台国(やまたいこく)の女王・卑弥呼(ひみこ)が、魏の皇帝から「親魏倭王・しんぎわおう」の金印を受けたのは、西暦239年である。
中国の皇帝から王の印綬をもらったものの、倭の王さまが臣下に爵位を与えてこの国を統治した形跡はまったく見えない。漢字が渡来系のごく一部の人しか理解できなかったのだから、当然かもしれない。
遣隋使、その後遣唐使を送り、大和朝廷は一気に隋・唐の律令制度を導入して、国の行政制度を確立する。科挙制度を導入しようとした形跡を、「続日本紀」の中にわずかに見ることができるが、結局定着していない。機が熟してなかったからであろう。
宦官(かんがん)と纏足(てんそく)には見向きもしていない。日本列島に住む我々の先祖の中に流れていた「南方の血」が、本能的にこれを拒否したのであろう。その健康な精神を誇りに思う。
中国と陸続きであった朝鮮半島の国々は、国家統一の前に古代中国の影響を過度に受けすぎた。フィリピンは絶海の孤島であったため、仏教・儒教・律令制度にまったく触れないまま、16世紀にスペインの植民地になった。これらを考えれば、日本列島が朝鮮半島から適度な距離の海中にあったという地理的事実は、すこぶる幸運なことであった。
光武帝から金印を与えられた1800年のち、日本の為政者は突然、この公・候・伯・子・男なる「爵位」というものに注目する。明治17年(1884)の華族令の制定である。
明治新政府の中に知恵者がいたのであろう。
近衛家を筆頭とする1000家の華族をつくることにより、皇室の側近である公家のプライドをくすぐり、廃藩置県で封土を失った旧大名をなだめ、維新の元勲をいい気分にさせ、さらに次の世代の若者たちにも「功があれば爵位がもらえる」とやる気を持たせた、不思議な制度であった。
これらの人々には名誉と金が与えられたが、権力は与えられなかった。その意味で、日本の爵位は「秦の軍功爵」に似ている。爵位を与える時、酒器の爵(杯)は与えられていない。明治政府の知恵者はこのことを忘れたのであろう。
余談だが、日本の為政者はこの明治期になって、はじめて科挙制度を導入している。高等文官試験制度である。
明治17年から太平洋戦争の敗戦までの60余年間に、国庫から支払われた華族への給付金は莫大な金額であった。ざっくりではあるが、それぞれの年の国家予算の1%弱がこれに充てられたと考えられる。60年分を合計すると国家予算の半年分である。
西南戦争では、時の国家予算の半分を戦費として使った。あのたぐいの内乱がさらにいくつか起きる可能性を未然に防ぎ、明治という国家を気分良くまとめることが出来たことを考えれば、この制度は十分に「もと」がとれた気がする。
そして、近代教育を受けた日本国民の多くが、この制度に疑問・不自然さ・反発を感じてきたころ、この制度は外部要因によって突如廃止された。昭和22年5月のことである。
西欧においても、この公・候・伯・子・男の爵位の制度があった。今なお残っている国もある。
英・独・仏語のそれぞれに、これらを意味する言葉がある。我々日本人には西欧の小説の中によく出てくるバロン(男爵・Baron)という言葉に馴染みがある。西欧人は、この制度は西欧で独自に発生したものだと思っているらしい。
英語で公爵のことをDukeという(Princeともいう)。古代ローマの将軍ドウクス(Dux)が語源とされているが、古代ローマといえども殷から見たらはるか後世である。この爵位という制度は、ラクダに乗ってシルクロードを通って、東から西へ入ったと考えるのが自然な気がする。
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