2020年2月21日金曜日

二荒山神社(4)

二人の神官から納得いく回答を得れなかったので、東京にもどって自分なりにどちらが古い本社かを調べてみた。すると、この問題に関しては、昔から喧々諤々(けんけんがくがく)の論争があったことを知った。

私は仕事柄数多くの方とお会いする。最近も栃木県出身の若者二人と、別々の場所でお会いした。二人とも30代前半の方で男性と女性だ。仕事の話が終わったあと、「ところで二荒山神社ですが、日光と宇都宮のどちらが本社なんでしょうかね?」と尋ねてみた。

「日光が古いに決まってますよ!」と、二人とも自信ありげにそう断言した。女性のほうは、「小学校で先生にそう教わった」と言う。栃木県人の多くは、日光のほうが古いと思っているらしい。

考えてみれば那須与一は、「日光の権現」、「宇都宮那須の湯泉大明神」と二つの神社を並べて祈念している。平安時代末期には、すでに両神社はそれぞれ独立した存在感を持っていたことがわかる。


明治新政府は、全国のいくつかの神社で、どちらが古い本社かという問題に頭を悩ませたらしい。

たとえば吉備津(きびつ)神社の場合、備中・吉備津神社を官幣中社(かんぺいちゅうしゃ)、備前・吉備津彦神社と備後・吉備津神社を国幣小社(こくへいしょうしゃ)に列格させることによって、政府(管轄は内務省神社局)はなんとか無難に行司役をはたした。

ところが、それ以上に悩まされたのが、この二荒山神社問題である。

明治4年、政府は宇都宮二荒山(ふたあらやま)神社を国幣中社に列格させた。すなわち、宇都宮が古い本社、と認めたのである。ところが、明治6年になって日光二荒山(ふたらさん)神社が国幣中社に列格され、その時点で宇都宮は県社に降格させられた。日光側がどのような資料を提出して政府に説明したのかは知らないが、明治6年の時点では、政府は一転して日光を式内社と認め本社であるとした。

明治16年になって、政府はやっと宇都宮を国幣中社に復活させている。めでたく二つの神社は同格になったわけだが、この10年間に宇都宮から内務省に対して猛烈な巻き返し・働きかけがあったと想像する。両神社において、激しい本家争いがあったと思われる。

これを繰り返したくない、と両神社は思っておられるのではあるまいか。お互いが親戚だと思っているものの、もし「親戚です」と言えば、私のような野次馬が、「どちらが本家ですか?どちらがお兄さんですか?」と聞いてくるのが目に見えている。だから、「親戚のくせにそうでないふりをしているのだな」、私はそう思った。


民俗学者の大林太良氏の「私の一宮巡詣記」に二荒山神社問題が紹介されている。次の通り、一部を引用させていただく。

下野一宮は宇都宮か日光か、また両社の関係はどうかは、昔から問題であった。「下野国誌」(
嘉永元年・1848)は、宇都宮は日光の支社だという説に断固反対している。
「もし承和5年(836)に日光山より移したる社ならば、延喜式(えんぎしき)を選定せし時には、いまだ七十年の社にて、いと新しき社なれば、神名帳に加入すべき謂(いわれ)なし」
もっともな議論である。
そして宇都宮は式内社で河内郡に鎮座する。日光は式内社ではなく都賀郡に鎮座する。これらからして、宇都宮のほうが一宮であることは疑いない。
しかし、「神傳」に日光と宇都宮を親子としているように、両社が密接な関係にあったことも明らかである。


私自身は、この大林太良氏や「下野国誌」の編者の考えに素直に同意できる。すなわち、宇都宮が歴史の古い本社、日光が支社という考えである。歴史的な事実を直視すれば、宇都宮が本社という考えに自然に落ち着く。













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